【桟原将司連載#8】「大阪ナンバー腕」評価も、高校卒業後は社会人志望と決めていた
【桟原将司 ハナの剛腕道中(8)】大阪桐蔭在学時代、僕は甲子園出場という目標を達成することができませんでした。4回戦で対戦した大体大浪商を相手に序盤で失点を重ね負けてしまいました。 試合直後は本当に悲しくて、試合に出ていない同級生に申し訳なくて泣き腫らしました。でも、翌日の朝に起きてみればもう野球をしなくていいんだという気持ちになったのも記憶にありますね。 その最後の試合で僕の直球のマックスが146キロを記録したそうです。そのスピード自体は当時の高校球児でいうと最速だったそうで当時の新聞には「大阪ナンバー腕」と表現してもらったことを覚えています。うまいこと書くなと思いましたね。 このころは敦賀気比の内海哲也(東京ガス~2003年ドラフト巨人自由枠)、七尾工業の森大輔(三菱ふそう川崎~03年ドラフト横浜自由枠)、柳川・香月良太(東芝~03年ドラフト近鉄自由枠)がプロ最注目の3投手的な存在でした。 その3人が全員、社会人を経て上位でプロ入りして高校時代の直球の最速が146キロくらいだったと思うんですね。僕は知名度ではその3人ほどではなかったですが、球だけは速かったという自負はありました。 僕も高校から社会人を経てプロ入りしているわけですが、高校時代からプロのスカウトの方々が見てくれていたそうです。ただ、そんなことは僕に知らされることもなく、自分では社会人野球志望というふうに勝手に決めていました。 ただ、西谷監督にはギリギリまで大学に進学希望と伝えていました。これは先輩たちからの謎のアドバイスで「いきなり社会人志望とか言ったら西谷先生に何言われるか分からんからギリギリまで言うな」と言われていたからなんですけどね。 どちらにせよ野球は続けるつもりでした。引退してからも練習には毎日ではないですけど参加してはいました。 当時はダイエーのスカウトの方が大阪桐蔭に熱心に通ってくれていた印象があります。ホークスの補強方針としては即戦力の投手の指名が中心になるので、高校から指名すれば下位になるなど、そういった噂も聞こえてきました。 社会人でいうとローソンからも声をかけていただきました。ダイエーグループと関係性の深い会社ということもあり、今思えばいろんな思惑があったんだろうなと思います。 ただ、プロ野球のドラフトと同じで社会人野球のスカウティングに関しても、いい投手から進路が決まっていくじゃないですか。東京ガスの内海などは夏までには決まっていたと考えてもおかしくないと思うんです。いわゆるドラ1みたいな感じですよね。 ところが僕はといえば引っ張りだこというわけではなく、どっかあるかなくらいの感覚でした。すると、母校野球部がお世話になっていた野球メーカー「ホーマー産業」、スポーツ用品ブランドの「ボナンザ」の担当の方が、ご縁をつないでくださいました。
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