最高裁で崩れた“時の壁” 旧優生保護法訴訟 最初に声を上げた女性が浮かべた涙【宮城発】
不法行為から20年が経過すると損害賠償権が消滅するという「除斥期間」。1989年の最高裁の判例を基に、旧優生保護法の下で不妊手術を強いられた被害者の訴えを退ける根拠となっていた。7月3日、最高裁は自らの判例を「変更すべき」とし、国が除斥期間を理由に責任を逃れるのは「信義則に反する」と断じた。まだ誰もこの問題を公に議論していなかった1997年、最初に声を上げた飯塚淳子さん(仮名70代)は法廷で歴史が変わる瞬間を目にした。そこには一言で言い表せない涙が浮かんでいた。 旧優生保護法の被害を最初に訴えた女性
一人で始めた “理不尽との闘い”
1948年に施行された旧優生保護法。障がいのある人などを「不良な子孫」と規定し、本人の同意を必要としない不妊手術を認めた。1996年に母体保護法へと改正され、強制的な不妊手術は認められなくなったが、その間に手術を受けたのは全国でおよそ2万5000人。このうち1万6000人あまりは本人の同意なく、強制的に行われたとみられている。 飯塚さんもその一人だ。16歳の時、軽度の知的障がいを理由に不妊手術を強制され、子供を産めない体になった。結婚もしたが、夫は不妊手術を受けたことを知ると家を出ていった。母親になるという夢も、幸せな人生も、旧優生保護法によって奪われた。 飯塚さんは法改正の翌年(1997年)から被害を訴えていたが、宮城県は飯塚さんが手術を受けた年度の記録をすでに破棄していて、訴訟は難しいと考えられていた。道が開けたのはおよそ20年後。それは長い闘いの始まりでもあった。
動き始めた歯車 訴訟へ
被害を訴え続けてきた飯塚さんは2013年、ある弁護士と出会う。消費者問題に取り組んできた新里宏二弁護士(72)だ。当時は差別や偏見を恐れ、飯塚さん以外に被害を訴えようという人がいなかった。飯塚さんの手術の記録も残されておらず、証拠も足りない。だが、人権侵害であることは明らかだった。 新里弁護士は2015年、日弁連に人権救済を申し立てた。2年後、日弁連は「優生思想に基づく不妊手術は人権侵害」という意見書を発表。メディアにも取り上げられ、15歳で不妊手術を受けた佐藤由美さん(仮名60代)が声を上げた。手術記録も残されていたことから、佐藤さんは2018年1月に仙台地裁へ提訴。全国へと広がる一斉訴訟の始まりだった。 佐藤さんの提訴後、宮城県は手術記録が残っていない人でも、一定の条件を満たせば手術を受けたと認める方針に変更。2018年5月に飯塚さんも裁判に加わることができた。