ロシア愛国主義に翻弄される「北方領土」 整備を進める本気度は?
北方領土海域は世界有数の漁場ですが、ソ連時代、極東の遠隔の地とあって開発は後回しにされていました。ソ連崩壊前後の混乱時には、政府の支援が減り、島民は困窮を極め、「神と政府によって忘れられた島」と自嘲していました。ロシア経済が疲弊した1990年代、政府に絶望した島民の中には、日本への返還論も出ていました。 しかし、21世紀にプーチン政権が誕生すると、石油価格高騰で経済が高成長を遂げ、自信をつけたロシアは2007年から千島開発計画に着手します。千島が相対的に貧しいこと、政府の予算が潤沢になったこともありますが、プーチン大統領が国策として、民族愛国主義を扇動したために第二次大戦の戦勝意識が強まったことで、「戦利品」の北方領土を重視する意識が出てきました。プーチン大統領が「ロシアの4島領有は大戦の結果だ」と開き直ったのもこのころです。 今、北方領土をビザなし渡航で訪れると、新しい住宅や施設が立ち並び、道路も舗装されるなど「ロシア化」が進んでいるのが実感できます。住民と話しても、日本への返還など一切念頭にない印象を受けます。 日本にとっては、ロシア政府が北方領土に関心を払わず、住民が離島して無人島化するのが望ましいですが、事態は逆の展開になっています。ロシア政府が新しい開発計画を採択したことは、ロシアは少なくとも2025年までは返還を想定していないことを意味します。
ただし、計画の履行にはいろいろ問題もあるようです。なによりも、ロシア経済は原油価格下落で不況色を強め、今年はマイナス成長です。外貨準備高も減少しており、このまま原油価格下落が続けば、いずれデフォルト(債務返済不能)に陥るとの観測もあります。 ロシア極東自体が過疎化し、産業もすっかり停滞しています。中国や韓国の企業に投資を呼び掛けても、投資環境が劣悪な北方領土に投資しようとする民間企業はないでしょう。 開発基金をめぐるトラブルも多く、択捉島の地区長二人が予算を横領した容疑で更迭されました。前サハリン州知事も今年2月に収賄容疑で逮捕されています。これらは氷山の一角とみられ、ロシアを覆う汚職・腐敗が開発計画にも及んでいるようです。 しかし、プーチン政権は国策として北方領土開発を推進する方針を決めています。実は、メドベージェフ首相は択捉視察の5日前、プーチン大統領と一緒にウクライナから強制併合したクリミア半島を訪れており、クリミアの実効支配強化策を協議したばかりです。 ウクライナ危機で欧米から経済制裁を受けるロシアは、安全保障上の危機感を強め、クリミアとクリールで実効支配を強化し、民族愛国主義を高めようとしています。クリミアとクリールがロシア民族主義の最前線になった形です。 プーチン大統領自身は領土問題での「ヒキワケ」に言及するなど、日露平和条約締結に前向きな姿勢を見せたこともありますが、欧米の制裁や国内経済の苦境で、愛国心高揚によって国民の危機意識を高め、政権延命を図っています。北方領土が愛国主義の犠牲になっている構図で、ロシアが正気に戻らないと領土交渉も進みません。
■名越健郎(なごし・けんろう) 1953年、岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒業後、時事通信入社。バンコク支局、モスクワ支局勤務。ワシントン支局長、モスクワ支局長、外信部長、編集局次長、仙台支社長等を経て退社。2012年から拓殖大学海外事情研究所教授、国際教養大学特任教授。著書に『独裁者プーチン』(文春新書)『ジョークで読む国際政治』(新潮新書)など。