イタリア映画の新時代の騎手が描き出す現代の神話。映画『墓泥棒と失われた女神』
いまのイタリア映画界を代表する新しい顔といえば、この人をおいて他にいない。1981年生まれの監督、アリーチェ・ロルヴァケル。ドイツ人の父とイタリア人の母のもと、伊半島の中西部に位置する風光明媚なトスカーナで育った彼女は、2011年、南イタリアのレッジョ・カラブリアを舞台に、思春期の少女の葛藤と成長を描いた『天空のからだ』で長編監督デビュー。いきなり第64回カンヌ国際映画祭監督週間に選出されてから、すべての長編が同映画祭への出品を果たしている。 今回の第4作となる『墓泥棒と失われた女神』もやはり、第76回(2023年)カンヌ国際映画祭コンペティション部門にエントリーして好評を博した傑作。原題は“La Chimera(キメラ=幻想)”。トスカーナ地方の田舎町を舞台に、勝手に掘り起こした盗品を売りさばく地元のトンバローリ(墓泥棒)の一味に加わっている青年の、失ってしまった恋人の影を追う愛の彷徨を描く。マーティン・スコセッシなどの大御所から同世代のグレタ・ガーウィグまで、同業の映画作家たちからも熱い支持を集めるロルヴァケルだが、イタリア映画史の豊かな遺伝子を受け継ぐ“新古典派”といった面持ちはそのままに、生と死、聖と俗、伝統と変容、土着性と現代性など二項対立の向こう側に手を伸ばして高次に昇華するような、さらなる独自の進化/深化を果たしている。
ジョシュ・オコナー主演で贈る、失われた恋人の幻想を追い続ける愛の彷徨の物語
時代背景は1980年代。刑務所から出所したばかりの英国人らしき青年アーサー(ジョシュ・オコナー)は、トスカーナに向かう列車の中で、ある女性の夢を見ていた。「君なのか、俺が失った女性の顔は」──やがてアーサーは車掌に声をかけられて目を覚ます。 田舎町に到着したアーサーを迎えたのは、墓泥棒の仲間だった。考古学の愛好家であるアーサーは、旧約聖書のアロンの杖のような二股に分かれた枝を使って、地下に隠れた物を探し当てる「ダウジング」の才能を持っていた。トスカーナには紀元前8世紀から同3世紀頃にかけて、古代ローマよりも前に繫栄した古代エトルリア文明の墓が埋まっている。仲間たちは彼の特殊能力を当てにして、掘り起こした埋葬品を売りさばいては日銭を稼ぐ。当然、神聖さを汚す冒涜的行為であり、違法でもあったが、社会の周縁で貧困にあえぐトンバローリたちにとってそれは生き抜く手段だった。 一方、城壁のすぐそばのボロ小屋に住んでいるアーサーは、とある古びた大きな屋敷に向かう。片脚が悪いせいで車椅子に座る家主のフローラ夫人(イザベラ・ロッセリーニ)は、アーサーの婚約者ベニアミーナの母親だ。アーサーとの再会を喜んだフローラ夫人は「ベニアミーナは見つかった? あきらめないで。見つけるのは得意でしょ?」と謎めいた言葉をかける。そして元歌手のフローラ夫人のもとには弟子の女性、イタリア(カロル・ドゥアルテ)が住み込みで働いていた。時折、母国語のポルトガル語が口をついて出るイタリアは、フローラ夫人に隠れて、自分のふたりの子どもの姉弟をこっそり屋敷に棲まわせていた。 この地では互いに異邦人同士のアーサーとイタリアは次第に接近していくが、そんなある日、アーサーと墓泥棒たちが稀少な価値を持つ美しい古代の女神像――エトルリアの大地母神を発見したことで、闇のアート市場を巻き込んだ騒動に発展していく……。 アリーチェ・ロルヴァケルの映画では、地元の旧来的なコミュニティの閉塞性と、近代化による都市文明や苛烈な経済競争といった肥大する欲望のシステム──この両方の抑圧が批評的視座から描かれる。監督自身の体験をもとに昔ながらの方法を続ける養蜂家の家族を描いた長編第2作『夏をゆく人々』(2015年/第67回カンヌ国際映画祭グランプリ)では、頑固者の父親に率いられた一家の内部的な抑圧と、彼らの取材にやってきたテレビ番組のクルーの欺瞞を両義的に映し出していく。またイノセントな現代の聖人、青年ラザロを実際の詐欺事件を通して描いた長編第3作『幸福なラザロ』(2019年/第71回カンヌ国際映画祭脚本賞)は、誰も外の世界を知らない小さな村の集落という閉じた共同体と、彼らの労働力を搾取して使い捨てようとする資本主義のメカニズムの冷徹を見据え、無垢なる魂の現代における受難を打ち出した(ラザロとは新約聖書のヨハネ福音書に登場するイエス・キリストの友人の名前から)。 1980年代から90年代にかけて実際にイタリアで横行した不正取引事件に着想を得たという『墓泥棒と失われた女神』では、そんなロルヴァケル流儀の風刺性と、ルーツの探究も含めた人間社会への洞察がさらに推し進められ、あらゆる主題やモチーフが複合的に絡み合う。例えば劇中に登場する吟遊詩人たちは「哀れな墓泥棒、国からはペテン師呼ばわり。カネになる仕事が欲しかっただけ。国は何もしてくれない、搾取できる者しか守らない」と“棄てられた存在”であるトンバローリの悲哀を歌う。そして最愛の女性の影を追うアーサーの姿は、亡くなった妻を生き返らせるために冥界(死後の世界)に赴いたギリシャ神話『オルフェウスとエウリュディケ』(ジャン・コクトーが1950年に監督した映画『オルフェ』などの元になった伝説)の悲劇のラブストーリーを想起させるものだ。ちなみにアーサーの夢の中に出てくる赤い糸は、日本など東アジアに古くから広まる「運命の赤い糸」の伝説にインスパイアされたらしい。 また屋敷を追い出されたイタリアが、子どもたちや他の女性たちと小さな廃駅を占拠して新しい自分たちのインディペンデントな居場所、ある種のシェルターを築いているくだりは、女性の主体性や権利獲得──フェミニズムが先駆的に活きていたという古代エトルリアの社会構造を延長させたような、女性中心の理想的な社会がささやかに実現されている様子を目にすることができる。そこには墓泥棒の地元コミュニティを支配する男性優位に疲れたファビアーナもいつしか参加しているのだ。 キャストにも注目。主人公アーサーを演じるのは、新世代の英国若手俳優を代表するひとりであるジョシュ・オコナー(1990年生まれ)。主演映画『ゴッズ・オウン・カントリー』(2019年/監督:フランシス・リー)やチャールズ皇太子に扮したドラマシリーズ『ザ・クラウン』(2019年~2020年)で高く評価され、全米のトレンドムービーとなった話題作『チャレンジャーズ』(2024年/監督:ルカ・グァダニーノ)ではゼンデイヤ、マイク・ファイストと三角関係になるテニス選手を快演した。実は今回の起用は『幸福なラザロ』を観て大きな感銘を受けたオコナーが、ロルヴァルケル作品への出演を熱望して監督に手紙を送ったことがきっかけとなったらしい。一方のロルヴァルケルもオコナーに惚れ込み、最初の脚本ではアーサーは60歳代の男性で、自身の過去を振り返るという回想形式だったが、オコナーに合わせて大きくリライトすることになった。 アーサーの恋人の母親フローラを演じるのは、イザベラ・ロッセリーニ(1952年生まれ)。『ブルーベルベット』(1986年/監督:デヴィッド・リンチ)の歌姫ドロシー役や一時期マーティン・スコセッシの妻だったことなどで特によく知られるが、何よりもロルヴァルケル監督が深く敬愛するロベルト・ロッセリーニ監督と、イングリッド・バーグマンの娘。この両親がちょうどイザベラが生まれたばかりの頃に監督&主演タッグを組んだ『イタリア旅行』(1953年)を、ロルヴァルケルは今回インスピレーションを受けた映画作品の中に挙げている。まさに彼女が憧れる映画史の輝かしいアイコンを、今回の自作の重要なポジションに迎えることができたわけだ。 また監督の実姉でありイタリア映画界を代表する俳優のひとり、アルバ・ロルヴァケル(1979年生まれ)が闇市場の美術品競売でマネーゲームを司るスパルタコ役で『夏をゆく人々』『幸福なラザロ』、さらに短編『無垢の瞳』(2022年)に続いて出演。さらにアーサーが夢の中で追い求める恋人のベニアミーナ役を演じるのは、『天空のからだ』で主演の少女マルタ役を演じたイレ・ヴィアネッロである。 撮影を務めるのは『アニエスの浜辺』(2009年/監督:アニエス・ヴァルダ)や『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(2012年/監督:ヴィム・ヴェンダース)などのドキュメンタリーでも知られ、『天空のからだ』から続けてロルヴァルケル監督作品を手掛けてきたフランス出身のエレーヌ・ルヴァール。ずっとフィルム撮影にこだわってきたロルヴァルケルだが、今作ではさまざまな画材を重ね塗りするように、多層的な物語を異なるテクスチャーで紡ぎ出すため、35mm、16mm、スーパー16mmと複数のフィルムを使い分けて撮影。デジタルシネマの時代にあえてフィルムを選択し、オーガニックな肌触りのシネマを志向しているのも、ロルヴァルケルの“現代批評”の一環といえるだろう。編集は『幸福なラザロ』に続くタッグで、クレール・ドゥニやレオス・カラックスの監督作品を常連で務めてきたネリー・ケティエ。やはりフランス出身の名手である。 確かにこれまでのロルヴァルケルは、他のどの若手監督よりもイタリア映画の嫡子たらんとすることに積極的だった。『夏をゆく人々』はフェデリコ・フェリーニ監督への熱烈なオマージュが随所に込められており、ヒロインの名前には『道』(1954年)のジェルソミーナを配したり。『幸福なラザロ』では下層に密着したネオレアリズモから神話性への越境が『アッカトーネ』(1961年)など初期のピエル・パオロ・パゾリーニ監督を彷彿させ、領主一族のはみ出し者の青年をルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』(1963年)でアラン・ドロンが演じた貴族の青年と同じタンクレディと名付けていた。 今回の『墓泥棒と失われた女神』も当然上記の監督たちやロッセリーニへの敬愛が打ち出されているが、しかし同時に異邦人の視点が物語を牽引したりなど、より作品の世界像を普遍に押し上げようとする意図が感じられる。リアリズムとファンタジー、考古学的な掘り下げと同時代のジャーナリズム、寓話的な物語と現代的な視点が融合する世界。ロルヴァケルの映画ではこれまで漠然と分断されていた歴史と現在が出会い、密接につながり、そこから未来を志向/思考しようとする。それは決して限定的なローカリティにとどまるものではなく、混迷する世界に生きる我々すべてに必要な人間の再検証だ。最後にこの傑作『墓泥棒と失われた女神』は、カンヌ国際映画祭のパルムドール受賞作──『パラサイト 半地下の家族』(2019年/監督:ポン・ジュノ)、『TITANE/チタン』(2021年/監督:ジュリア・デュクルノー)、『逆転のトライアングル』(2022年/監督:リューベン・オストルンド)、『落下の解剖学』(2023年/監督:ジュスティーヌ・トリエ)の配給権を4年連続で獲得したことでも話題になった気鋭のスタジオ、NEONが北米配給を担っていることも付け加えておきたい。 Text:Naoto Mori Edit:Sayaka Ito