かつて誰よりも恐れた認知症を「発症してしまった元脳外科医」...彼が「仲間」に向けて発したメッセージの裏にある、家族だけが知る「葛藤」
認知症を受け入れるに至った経緯
質:というと、以前はそういう楽しみ方はできなかったのですか。 晋:そうですね。 質:何かそれを妨げるようなことが? 晋:どうだったんでしょうね。確かに何かを、何かがダメだったんでしょうね。 質:時間的にゆとりがなかったとか。 晋:それはありますね。東大の時からですからね。その時はカサカサしていましたね。何か忙しいし、そういうこともあって、あんまりよくなかったですね。 質:いろんな所でスッと人と接したり楽しめる? 晋:自分はアルツハイマーという話をしましたし、みなさんも話してくれる。それはよかったです。 質:アルツハイマーになったことの意味が、ご自身のなかにあると考えていらっしゃいますか。 晋:私がアルツハイマーになったということが、自分にとって最初は「何でだ」と思っていました。けれども私は私であることがやっとわかった。そこまでに至るまでに相当格闘したわけですけど。ときどき妻とけんかしたりしましたが、だんだんと一緒にやっていくということが、やっとできているというようなことを最近考えていますね。 質:同じ病にかかった方、その家族の方へのメッセージを。 晋:「こういう病気はどうしようもない、何もできない」、多くの人がそういうことでこの病気を考えていると思います。私がそのことに対して皆さんに「そうでないんだよ」と言えることができれば一番いいのではないかと思います。
苦悩には意味がある
沖縄に住んでいたころ、晋は、 「自分は何もせずに朽ち果てるのか」 と怒って、朝になっても寝床から起きてこないことがありました。自分の病についても、積極的には語ろうとしませんでした。 病を公にする活動は、そんな彼の苦悩に意味を与えてくれたようです。 クリスティーンが愛読していることを知って、私がふと手に取った本があります。オーストリアの精神科医、V・E・フランクルの著作『苦悩する人間』(春秋社)です。 ナチス政権下でユダヤ人として収容所生活を経験したフランクルは、苦悩について次のように書いていました。 苦悩を志向し、有意味に苦悩することができるのは、何かのため、誰かのために苦悩するときだけなのです。(中略)意味に満ちた苦悩とは、「何々のための」苦悩なのです。私たちは苦悩を受容することによって、苦悩を志向するだけではなく苦悩を通り抜けて、苦悩と同一ではない何かを志向するのです。 「Go to the peopleだね」 講演に出かけるとき私がこう声をかけると、晋は必ず、 「そうだよ」 と応えていました。
認知症を患っているからこそできること
「医者だったころは多くの患者さんを治したけれども、今はその何倍もの苦しんでいる人に慰め、励ましを与えている」 そんなお便りをくれた晋の友人もいました。 晋は、脳外科医だったからこそ誰よりも認知症を恐れ、なかなかそれを受け入れられませんでした。 ですが今、あえて病を公表し、恐れることはないというメッセージを誰かに届けることで、「苦悩と同一ではない何か」を目指せるようになったのかもしれません。 『「君には、ついていけない」...認知症の人とその家族が苦しむ「辛すぎるすれ違い」とその「驚きの解決法」』へ続く
若井 克子