転生しまくったら重度の人間不信になった猫…やっと見つけたユートピアは自称“魔女”が営む古書店(レビュー)
「日本ファンタジーノベル大賞2024」大賞受賞作である『猫と罰』(新潮社)が刊行された。 いつかはプロの作家になれると根拠の無い自信を胸に執筆を続けた宇津木健太郎さんが、猫を主役にビブリア奇譚を描いた本作だが、いったいどんな作品なのか? 著者とは原稿用紙越しに面識があるという、アンソロジストで文芸評論家の東雅夫さんが紹介する。
東雅夫・評「尽きることなき、物語の魔力」
人間が人間を殺して、その肉を喰らったりしたら、これはもう大事件と言うか、立派な「猟奇犯罪」となることだろう。 しかしながら、その一方で、人間が道ゆく猫を無差別に殺しても、そこに正当な理由などなく、ただ「むしゃくしゃしたから」とか「怒りの捌け口を求めて」などといった身勝手極まる理由で、何の過失もない猫の命を一方的に奪っても、必ず罪に問われるわけではない(まあ近年は「動物愛護」の観点から、そうした行為が社会的に非難されるケースも少なくはないのだが……少なくとも「猫殺し」の罪で実刑を受けたり処刑された人間は、過去に例があるまい)。 これは当事者である猫たちの側から見たら、ただただ怖ろしく、忌まわしく、このうえなく不条理な出来事であるに違いない。 本書の主人公である「金之助」もまた、幾度となく命の危険に晒された揚げ句、無惨かつ非情にも、人間たちの身勝手なふるまいによって、情け容赦なく命を奪われ、それゆえ深刻な「人間不信」に陥っている。人間どころか同胞である猫たちにも、容易に自身の素性や心のうちを明かさないほどに……。 「猫に九生あり」と西洋の諺にも言われるように、本書に登場する猫たちは、いずれもが何度かの「転生」を重ねており、主人公の「金之助」に至っては、大飢饉の江戸時代を皮切りに、明治・大正・昭和と続く激動の時代を、死に代わり生き代わり、すでに八度の転生を繰り返してきた、とされている。そのたびに、悲惨な「人生」ならぬ「猫生」を目の当たりしてきたわけで、これでは重度の人間不信に陥るのも無理はないな、と思わせられる。 ちなみに「金之助」には、心から慕ってやまない飼い主(二度目の転生の際に出逢った人物)がいた。その名前からも想像がつくだろう文豪中の大文豪「夏目金之助」(漱石)である。そう、本書の主人公・金之助こそは、漱石一代の出世作『吾輩は猫である』の主役たる、あの黒猫の生まれ変わりなのだった。 「吾輩は猫である。名前はまだない」という名高い冒頭の一節にあるとおり、「金之助」は彼(=猫)自身の命名による仮の名で、飼い主たる漱石が付けた「真名」(真の名前)ではない。「だからこそ、『三つめ』の命を受けた時、己はどうしても、あの男に名前を与えて欲しかった」という願いも空しく、この「癇癪持ちの厭世家」は、遂に「金之助」に呼び名を与えなかったのである。 物語は、「金之助」があてど無き放浪の果て、運命的に流れ着いた一軒の古本屋――「北斗堂」を舞台に繰り広げられる。客たちが本を購入しても、いつの間にか代わりの本の補充が成されている、その不思議な書店は、北星恵梨香という女性店主が四匹の猫たちと共に暮らす、一種のユートピアであり、同時にそら怖ろしい牢獄でもある、何とも奇妙な「呪縛」空間だった。 五匹目の書店住人となった「金之助」は、書店の常連である「円」という名の、本をこよなく愛し、自分も物語の語り手たらんと欲する娘と知り合い、初心な彼女の姿に、懐かしい飼い主=漱石の面影を重ね合わせたりもする。 ちなみに、本書には漱石以外にも、猫を愛した近現代の文豪たちが、ふらりと、懐手をして過ぎり去る。池波正太郎しかり稲垣足穂しかり、室生犀星またしかり……。 やがて金之助は、迷宮めいた夢さながらの世界で、実に途方もない存在(いや、本当に途方もないのよ、まさかこんなところに、あのお方が顕現されるとは!?)と出逢うことになるのだが……。 実は小生、本書の著者とは、東京創元社のホラー長編賞の選考会で、原稿用紙越しに面識がある。そちらは、もう臆面もないホラー作品で、残念ながら受賞を逸したのだが、結果的に本書で、本格的な作家デビュー(物語の紡ぎ手としての)を果たすことになったのは、結果オーライというか、良い事だったのではないかと愚考する次第。 なぜなら本書は、千変万化する「物語」に魅了されてやまない人々に、著者が無量の感慨と共感をこめて贈る、永遠に尽きることのない物語、なのだから! 蛇足を申せば、これは〈日本ファンタジーノベル大賞〉に、まことに相応しい物語だと、私は思う。 [レビュアー]東雅夫(アンソロジスト・文芸評論家) 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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