220年以上前から地元で親しまれてきた葛飾鎌倉八幡神社の富士塚【プロハイカー斉藤正史のTOKYO山頂ガイド】
東京23区内、特に山手線の内側はビル街や飲食店街、住宅街ばかり。そう思っている人が多いかもしれません。でも、目を凝らせば東京都心にも「山」はあります。そんな東京の山の世界を、日本で唯一のプロハイカーである斉藤正史さんが案内します。 【写真9枚】登山口(最寄り駅)は、北総線新柴又駅北側口。帝釈天こと名刹題経寺、赤稲荷神社、葛飾鎌倉八幡神社など登山道を写真で見る FILE.85は、葛飾区の鎌倉富士です。
第85座目「鎌倉富士」
◆今回の登山口は、北総線新柴又駅です 今回の登山口(最寄り駅)は、北総線新柴又駅北側口です。東北(山形)に住む僕にとって、北総線は初めて聞く名前の路線です。路線図を見ると、北総線は東京都葛飾区の京成高砂駅から千葉県印西市の印旛日本医大駅までを結ぶ北総鉄道の鉄道路線だそうで、東京と成田国際空港を結ぶ京成電鉄の成田空港線(成田スカイアクセス線)と全線にわたって線路を共用しており、乗車券は共通しているんだそうです。知っているようで知りませんでした。 そして、今回目指す葛飾鎌倉八幡神社の最寄り駅は新柴又駅です。柴又というと「寅さん」が有名ですね。新柴又駅から柴又街道を北に500mほど進むと、有名な柴又帝釈天(たいしゃくてん)もあります。僕も観光気分で柴又帝釈天に立ち寄りました。 東京の東の外れ、葛飾区柴又にある帝釈天こと名刹題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)。その門前町には、名物の草団子を商う店が軒を連ねています。その中に「とら屋」という江戸時代から続く老舗があり、主人の車竜造と妻のつね、そして両親と長兄を亡くし、腹違いの次兄は行方知れずになったままの姪さくらが暮らしています。 行方不明だったさくらの次兄・寅次郎が、18年ぶりに帰って来て騒動を起こし…というのが「男はつらいよ フーテンの寅」のあらすじですね。 少し脱線しましたが、あらためて新柴又駅から出発です。 ◆江戸時代から続く由緒ある道を抜けて いま来た柴又街道を今度は少し南下します。するとすぐに「さくらみち」にぶつかります。 佐倉街道(さくらみち)は、かつて江戸から千葉の佐倉に通じる街道として栄えていました。日本橋から葛飾区の新宿までは水戸街道と共通路線を通り、新宿の町はずれから分かれ、上小岩村(現在の江戸川区)を抜けて江戸川を渡し船で越え、下総の村々を経て佐倉へとつながっていました。東海道等の五街道に匹敵する程の重要な道だったそうです。 この佐倉街道は大別して2つの道があるそうです。 江戸時代史では、その2つの佐倉街道を区別するために、水戸街道新宿の追分~佐倉を結ぶ佐倉街道を「水戸佐倉道」、寒川湊(現在の千葉港)と佐倉を結ぶ佐倉街道を「千葉佐倉道」と呼び分けるそうです。 セブンイレブン葛飾柴又4丁目店まで来てみると、遠回りしないで駅からまっすぐアクセスできたようです。でも、「さくらみち」に出会えましたので、これはこれで良かったと思いつつ、柴又街道と並行するように通る道を南下していきます。すると、直ぐ右手側に神社らしき赤いのぼりと、鳥居が見えてきました。まだ、目的地の鎌倉八幡神社に着くには早すぎると思いつつ、神社を見に行ってみました。 セブンイレブン葛飾柴又4丁目店からは細い路地に入っています。赤稲荷神社の創建年代は不詳ですが、覆屋(おおいや※)が赤く塗ってあることから、鎌倉1丁目の東稲荷神社とくらべ赤稲荷神社と呼ばれてきたといいます。ちゃんと草木などは伐採されていましたが、なんとなく少しさびれた感じがしますが、雰囲気のある神社でした。今は覆屋がないようですので、当時どんな赤色の覆屋があったかは知ることはできませんね。 ※覆屋は、貴重な建物を風雨から保護するため、それらを覆うように建設された簡易な建築物。覆屋や鞘堂(さやどう)とも呼ばれています。 赤稲荷神社から何もない住宅地を再び柴又街道方面に進んでいきます。すると柴又街道に出るところに石碑がありました。「右小岩 千葉街道」「左金町より川越街道」と書かれています。僕は神社のある方向、左へ川越街道へと進んでいきます。 すると、すぐ目の前に目的地の葛飾鎌倉八幡神社が現れました。 ◆ようやく目的地の葛飾鎌倉八幡神社へ ・葛飾鎌倉八幡神社 葛飾区鎌倉にある八幡神社です。鎌倉八幡神社は、相模鎌倉郡の人、源右衛門がこの地の開発にあたり、寛永年間(1624-44年)に鎌倉八幡宮を勧請して氏神としたと伝えられています。 鎌倉という地名もこのことに由来するそうです。江戸時代に入ると神社は旧鎌倉新田村(曼荼羅)の鎮守となったそうです。鎌倉新田の別名が「曼荼羅」なのは、「南無妙法蓮華経」の題目を刻んだ板碑が神社敷地で出土されたことによるそうです。 ・鎌倉富士 現在の富士塚は2016年(平成28年)の改修後のもので、高さ2m余りであり、頂上には1800年(寛政12年)と刻まれた石祠が鎮座しています。頂上へ向かう途中にいくつかの石碑が建ち、その一つは1924年(大正13年)「富士登山記念」と刻まれたものでした。石碑には富士講として富士山を巡礼した41名の登山者名も刻まれており、川上、岩沢、山崎などの姓を持つ者で占められていることから地域の担い手を中心とした講であったと考えられるそうです。 地域に愛された富士塚には、しっかりとその歴史が伝わっているのですね。今回は、富士塚だけではなく旧道など先人たちの足跡をいろいろ目にすることができ、東京の下町の地元愛の強さや思いを感じる山行となりました。 次回は葛飾区の金町富士です。 私が書きました! プロハイカー 斉藤正史 2012年より日本で唯一のプロハイカーとして活動。トレイルカルチャー普及のため、海外のトレイルを歩き、アウトドア媒体を中心に寄稿する傍ら、地元山形にトレイルのコースを作る活動「山形ロングトレイル(YLT)」を行なう。スルーハイク(単年で一気にルートを歩く方法)にこだわり、スルーハイクしたトレイルだけで22.000km(地球半周以上)を超える。最新情報はブログを。
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