食べることは生きること 戦時中の記事からレシピ再現 親心ぎっしり、知恵絞り満足感
「材料不足の折柄、子供達のお辨當(べんとう)にはお母様方も頭を悩ましてゐられるでせう」。太平洋戦争が始まって2カ月後の1942(昭和17)年2月28日の中国新聞には、こんな見出しの料理記事が掲載されていた。材料と作り方も紹介。わずかな食糧で栄養を確保しようという工夫がみられ、「食べることは生きることだった」と学識経験者は語る。当時の記事を基に2品を再現し、栄養を分析した。 【写真】「油揚げのそぼろ弁当」と「あげうどん」 「油揚げのそぼろ弁当」と「あげうどん」を再現してくれたのは、広島県呉市で料理学校を営む料理研究家の白樺悦味さん(81)。「家にある物で何とかおなかを満たそうと、家庭でもこの記事を参考に一生懸命作ったであろう様子が見て取れる」と感心していた。 そぼろ弁当は、油揚げを細かく刻み、まるで鶏ミンチのような舌触り。冷ご飯とうどん、野菜を混ぜて団子状にして揚げる「あげうどん」は外側がカリカリで香ばしく、食べ応えがある。 この2品を岡山市北区の中国学園大人間栄養学科の多田賢代教授(応用栄養学)が栄養分析。いずれも栄養が偏っており、三大栄養素となるたんぱく質、脂質、炭水化物でみると、大半で現在の男子高校生の基準量を大きく下回っていた。カルシウムと鉄分は、推奨量の半分程度だった。 ただ、そぼろ弁当は、手に入りにくい動物性たんぱく質を油揚げで補ったり、うどんを腹持ちがよく満足感の増す油で揚げたり、知恵が詰まっているという。「見た目をおいしそうに見せる工夫もあって、おなかを空かせた子どもを思う親心が垣間見える」と多田教授は話す。 「当時揚げ物はぜいたく品。白米はあこがれの的だった」と話すのは、戦時下の食生活を研究してきた同大の菅淑江名誉教授(87)=栄養指導。「戦争初期はまだ油が手に入っていたのでしょう。その後は戦況の悪化とともに、どんどん食糧事情は厳しくなった」と話す。 国立公文書館アジア歴史資料センター(東京都)によると、コメは41年から配給通帳制となり、11~60歳までは一日330グラム、6~10歳は同200グラム、1~5歳が同120グラムと定められていた。しかし、戦争が長引き、配給が遅れたり滞ったりすることは日常茶飯事だったという。 終戦後はさらに食糧難が悪化。菅名誉教授は間もなくして、七つ下の弟栄博(ひでひろ)ちゃん=当時(1)=を消化不良で亡くした。「離乳食に適した食べ物もなかったんだと思う。私も自宅の畑に植えたサツマイモばかり食べていた。みんなよく生き延びたものです」と振り返る。「食べることは生きる基本。戦争になれば、それすらかなわなくなることを知っておいてほしい」と力を込めた。
中国新聞社