第160回芥川賞受賞会見(全文)町屋良平さん「いつもいろいろありがとう、と伝えた」
選考委員は筆の迫力を評価されたがどう思うか
日本経済新聞:日経新聞の桂といいます。このたびは本当、おめでとうございます。 町屋:ありがとうございます。 日本経済新聞:選考委員からの講評の中で文章に対する描写の徹底性、徹底して、このトレーニングですとか減量、戦いへの心境、そういったものを書くところの筆の迫力というのが評価されていましたが、その辺りについてご自身ではどうお考えですか。 町屋:今いただいたお言葉はすごくうれしいですね。この登場人物のやっていることと、自分の文章っていうのが釣り合うようにしっかり書ければと思っていたので、すごくうれしいです。 日本経済新聞:今回はそれが釣り合うまでしっかり書けたというような気持ちが、書き終わったときにもありましたか。 町屋:そうですね。 自分では書き終えたときに、そうした手応えは自分の中ではありました。 日本経済新聞:ありがとうございます。 町屋:ありがとうございます。 司会:はい、ほかに質問のある方。では鵜飼さんから、眼鏡の方です、どうぞ。
ボクシングと小説の親和性は?
読売新聞:どうも、読売新聞の鵜飼です。おめでとうございます。 町屋:ありがとうございます。 読売新聞:まずその服ですけど、赤いの、それ、なんか気になる模様が入ってる、それ、どういう服なんです? 町屋:模様はそんな意識してなかったんですけど、単にお気に入りの一張羅で。 読売新聞:特にボクシングのときに使うとか、そういうのじゃなくて。 町屋:ではないと思います。近くの古着屋で買ったんで。 読売新聞:そうですか。それから、今回、ボクシングが題材なんですけど、ご自身でもボクシングをおやりになってたり、取材もされたりってことですけど、ボクシングと小説を書くっていうこと、考えてみたらば『太陽の季節』という芥川賞の昔の作品もボクシングなんですけど、親和性と違うところって、どんなところか、ちょっと。 町屋:結構、近しいところとしては、毎日積み重ねていくものっていうのと、自分の体がどうなっていて、自分の体から表現されたものがどうなっているかっていうことを日々、確認しながら積み上げていくっていうところが近しいかなと思っています。 違いとしては、ボクシングっていうのはある1日の、試合の日っていうのを目指してやっていますが、小説というのはある種、書き終わっても、別にそれが終わりというわけじゃなくて、その小説の中で書き継いでいた思考っていうのは、それからもずっと続いていくものなので、作品という区切りとしてあるかと思うんですけども、そういうある種の区切りのなさみたいなものは、ちょっと感覚が違うかもしれないなとは思っています。 読売新聞:それから今回、候補になるの2回目ですけども、そういう意味では1ラウンドではなくて2ラウンド目で。ボクシング用語で喜びを表現するとすると、むちゃぶりですが、どんな感じでしょうか。 町屋:ボクシング用語。 読売新聞:はい。例えば2ラウンドKOとか、2ラウンド10秒なんとかなんとかとか。すいません、むちゃぶりで。 町屋:これ、うまいかどうか分からないんですけど、TKOっていう言葉がありますけど、要するに、がむしゃらに頑張っていたら終わっていたみたいな、そういうのはちょっとうまいかどうか分かんないですけど、思いつきましたね。 読売新聞:あともう1つ最後に、クリンチの書き方のところが非常に面白かったんですよね。つまり、前の試合で負けて、かつボクシングとは何かって考えたときにクリンチっていう、ある種、特殊なやり方があって、かなり技術的なこととかも書かれてたんですけども、いわゆる賞を取るっていうのが勝利だとすれば、そうじゃない、普通の書く営みもあるとすると、ちょっとその辺の、小説におけるクリンチってなんだって、よく分かんない質問ですが。 町屋:ボクシングにおけるクリンチっていうのは、自分もプロのリングに立ってとか、本格的にやっていたわけではないので、軽く言えるものではないんですけど、見てる人からするとブレークタイムでありながら、実は一番すごく疲れてしまうというか、スタミナを消費する時間でもあるので、うまいかどうか分かんないですけど、1つの小説を書いて、その次の小説を書くまでの考えている、硬直している時間っていうのが、親和性があるかもしれないなっていうのは、今のお話でちょっと思いました。 読売新聞:むちゃな質問にうまく答えていただき、ありがとうございます。 町屋:ありがとうございます。 司会:はい、ほかにご質問のある方。じゃあ。すいません、ありがとうございます。