〈ギャラクシー賞奨励賞受賞〉放送局の幹部までもが「ニュースなんていらない!」「稼げるコンテンツを探せ!」と発言する時代に、「記者たち」の今と未来を見据える
「自分の中での客観報道や表現の自由は、全部方便だった」
いっぽう、政治に対する諦めとは対照的に自己犠牲をもてはやす流れがある。特攻隊や乙女たちの殉死を美談として広めたい人たちが存在する。 戦場はグロテスクで残酷だが、涙を誘うストーリーは国民感情の動員に役立つ。他者の人生を自分の道具と考える政治指導者にとってこれが都合よい。他国の脅威を声高に唱え、「一戦を交える覚悟」などと煽る政治家たちは、自己犠牲こそ愛国行為だと称賛するだろう。 今年、初めて合格した令和書籍の中学歴史教科書も想像した通り、殉国美談のコラムが目立つ。たとえば、1945年の玉音放送後も樺太の地で電話交換手の女性たちが業務を続けて自決に追い込まれた真岡郵便電子局の悲劇だ。 東日本大震災の時、南三陸町の女性職員が庁内の防災無線で避難を呼びかけて命を落とした献身的行為と結び付けて記述する。いずれも逃げ遅れた背景は棚上げされている。 日本軍や行政機関の責任から目を背ける忘却でもあり、新たな戦争に利用されやすい国民作りにも繋がる。 人間の弱さとつきあわなければならない――「記者たち」を制作して改めてつよく思う。石橋学記者はインタビューで内心をこう振り返った。 「自分の中での客観報道や表現の自由は、全部方便だったわけですよ。やりすごせている自分、さして考えずに、やりすごせる自分、これこそが差別の構造なんだ」 在日コリアンの母と日本人の父を両親に持つ少年が自分の地域を襲うヘイトデモに苦しんでいると気づいた石橋さんは記事の書き方を思い切って変えてゆく。 「書くことで守る」と少年に伝えた彼の姿に流れる以下のナレーションは、私自身も感じてきた絶望と希望の中から生まれたものだ。 「無関心にすぎゆく日常にこそ、絶望は生まれます。そんな日常の暗がりに光を当て、書くことで検証し、社会の仕組みを変えようと本気になる記者たちに向けられる一筋の希望」 直視することが癒しになる、そう語ってくれた人たちの切なる思い。弱さを知るからこそ誠実な取材があり、より良い社会を目指すのが記者なのだ。石橋さんは最後こう語ってくれた。 「ヘイトスピーチに晒されている人たちを目の前にして僕らの仕事は、命がかかっている仕事だと実感しています。 今を生きる人たちもそうだけれど、ここで歯止めがかからなければ、差別が広がり、ヘイトクライムが広がり、それは歴史が示しているように、侵略、戦争というものに繋がっていきますよね。未来の子供たちを守るためにも僕らの仕事はあるんだと感じています」