センバツ2024 待ちわびた 聖地に校歌、響く日を 耐久吹奏楽部OG・中井さん /和歌山
耐久の甲子園初出場を心から楽しみにしている元同校吹奏楽部員がいる。有田川町吉原の中井訓妊(くに)子さん(71)は箕島が優勝した1970年のセンバツで、耐久の吹奏楽部部長としてアルプス席で友情演奏し、県勢戦後初の全国制覇に一役買った。その時以来、「次は母校が出場し、甲子園で在校生の吹奏楽部員にも演奏してもらいたい」と見守ってきた。半世紀以上を経過して実現し、「夢のようです」と本番の日を待ちわびている。【加藤敦久】 【写真で見る歓喜の瞬間】歴代のセンバツ覇者たち 当時の耐久の吹奏楽部は部員も減少し、練習も停滞していたという。3年生が卒業し、2年生だった中井さんが部長となった際、「気持ちを新たに立て直そう」と部員に呼び掛け、定期演奏会やコンクールへの出場を始めた。 ◇箕島応援で甲子園へ そんな時、センバツ出場を決めた近隣の箕島からスタンドで演奏するブラスバンド部員が不足しているとして「出場」の依頼が届いた。「甲子園に行ける」とアルトサックス担当の中井さんも仲間の約20人の部員とともに箕島の校歌やマーチを必死で覚えて、箕島、友情演奏の向陽の部員と本番に臨んだ。 だが、屋外ではいつもの音量で演奏してもグラウンドに届かない。相手は強豪校で応援にも慣れており「演奏や声援に一体感があった。最初は圧倒された」。それでも、味方にヒットが出たり、点が入ったりするたびに演奏に力がこもり、チームが勝ち進むごとに箕島側の応援団も足並みがそろって迫力が出た。優勝した時は、自分のことのように大はしゃぎして我を忘れたという。卒業後も箕島が甲子園に出るたびに欠かさず応援に駆けつけ、当時演奏した3校の部員たちで何度も集まって思い出話に花を咲かせてきた。 一方で、母校の耐久の出場で同じ感動を味わいたいという願いは拭えず、母校が出る県大会の試合に毎年のように足を運んできた。「県内の他の学校が甲子園に出ると、寄付金の案内が届く。『耐久が甲子園に出るなら、喜んで出すんだけど』が口ぐせになっていた」 それだけに昨秋県予選を突破し、大阪市で開かれた近畿地区大会に出場した時は夫の雅昭さん(73)と共に「今度こそは」と駆けつけた。長年の思いがあったためか、校歌が流れるのをスタンドで聞いた時の感激はひとしおだった。「県大会会場以外で、聞けるなんて。1回戦の社(兵庫)戦のシートノックでテープで校歌が流れただけで大泣きし、勝利後にもう一度流れた時は涙がぽろぽろ出て止まらなかった」と振り返る。センバツ出場が決まると、さっそく母校に寄付した。 ◇「楽しんで演奏して」 現在耐久エースの冷水孝輔投手らは有田リトルシニアで2学年上の孫と一緒にプレーした選手でもあり、「甲子園には必ず応援に行きます」と熱が入る。また、グラウンドでプレーする選手だけではなく、吹奏楽部の後輩にも「甲子園の先輩」としてエールを送る。「誇りを持って臨み、勝ち負けを超えて思い切り楽しんでほしい」 後輩の演奏を甲子園のスタンドで聞く感動は格別に違いない。