35年前の生放送で起きた衝撃の放送事故 伝説のロックスターが抱いた強い覚悟と怒り
ザ・タイマーズ特番の制作者が語る「ザ・タイマーズとは何だったのか」
1989年、忌野清志郎さんによく似た人物(=ZERRY)が率いる4人組の覆面バンド、ザ・タイマーズがメジャーデビューし、今年で35年を迎えた。土木作業服にヘルメットにサングラスという奇抜ないでたちで、前年の88年からライブイベントや学園祭にゲリラ的に出演し、風刺の効いた歌で権力や体制を皮肉った。89年10月放送の音楽番組では、替え歌であるラジオ局を批判して、放送禁止用語も発するなど確信犯的にパフォーマンスを展開し、音楽史に残る“放送事故”を起こした。そんな、社会に強烈な印象を与えた伝説的バンドのザ・タイマーズについて、ENCOUNTでは、関係者の証言を交えて2回にわたり特集する。第1回はフジテレビNEXT『拝啓!ザ・タイマーズ~あれから35年~』(11月16日放送、午後9時~同11時)の番組プロデューサー・平野雄大さん(55)に話を聞いた。(取材・文=福嶋剛) 【動画】「ひれ伏すしかないくらいのセンスとユーモア」…THE TIMERS『ギーンギーン』リリックビデオ ――平野さんは、ザ・タイマーズの替え歌を採用面接で披露してフジテレビに入社したという(2022年に退社)、筋金入りのロック好きだそうですね。 「初めは“めんたいロック”みたいな硬派なロックが好きでした。でも早稲田大学に入り学園祭に来たザ・タイマーズを見た時、人生で1、2を争うくらいの衝撃を受けました」 ――どんなライブでしたか。 「もう会場は超満員で客は男子学生ばかりでした。大学の講堂なので十分な照明設備もなく、華やかなRCサクセションのステージとは真逆の薄暗くて怪しい感じでした。覆面と言ってもみんな清志郎さんが歌っているのは分かっているから、タバコをくわえながら登場すると『キヨシロー!』って野次が飛びました。演奏が始まるとステージの前にどっと人が押し寄せて、硬派で野蛮なロックを感じました」 ――あらためてザ・タイマーズの魅力とは。 「インターネットがない時代に、世の中で起きていることや『何かおかしくないか?』といった疑問をまるで日記を書くように歌詞にして、曲ができたらすぐに人前で演奏していたので、今のYouTuberとやっていることが似ているなと思いました」 ――前年の1988年にRCサクセションのアルバム『COVERS』が、いわゆる“大人の事情”で発売中止になったこともザ・タイマーズの活動に勢いをつけた、と思いますか。 「それはあると思います。今回、番組を制作するにあたり、あらためて関係者やメンバーの証言を集めていくと『時間がたてばたつほど忖度されたり、発売禁止になったり、ろくなことはない』と。だから清志郎さんが、すぐに動ける若いメンバーと組んで、歌を誰にも止めさせないという強い思いでやっていて、楽屋で(曲を)作ってすぐにその日のステージで歌うこともあったようです」 ――そして、ザ・タイマーズといえば、「FM東京事件」が有名です。89年10月、フジテレビの音楽番組『ヒットスタジオR&N』で5曲(『タイマーズのテーマ』『偽善者』『デイ・ドリーム・ビリーバー』『イモ』『タイマーズのテーマ(エンディングバージョン)』)歌う予定でしたが、2曲目の『偽善者』を歌わずに突然、FM東京(現・TOKYO FM)とFM仙台を放送禁止用語を交えて痛烈に批判する『FM東京の曲』を歌い、翌日の新聞にも取り上げられるほどの当時、社会問題になりました。 「僕はまだ学生だったので入社してから先輩に話を聞きました。そして今回特番を作るにあたり、あらためて『ヒットスタジオR&N』の番組ディレクターだった水口昌彦さんにも当時のことを聞きました。(あのパフォーマンスは)清志郎さんが歌詞を提供したTEARDROPSの『谷間のうた』がFM仙台で放送禁止になり、タイマーズの『土木作業員ブルース』がFM東京で放送自粛にされたことに腹を立てての行動だったのですが、テレビ側からするといわば公共の電波が乗っ取られた形なので、ありえない暴挙だったわけです。一方で、そういったアクシデントやハプニングが起きたら、善し悪しを考える前に目の前で起きていることを記録するというのもテレビマンの役目なんです」 ――やめずに撮り続けた。と。 「そうです。『まずい!』という思いと、『カメラを回し続けなくてはいけない』という思いが、スタジオで渦を巻いていたそうです。水口さんも必死だったとお聞きました。僕はいち視聴者でしたが、今だから話せますけど『FM東京の曲』の後に歌った『デイ・ドリーム・ビリーバー』が、余計に美しかったんです。イントロが流れた瞬間、それまでの騒動が全部帳消しになるくらい美しく響きました」 ――ザ・タイマーズとしてはどうだったのでしょう。 「今やメンバーや関係者の証言から考察するしかないのですが、すでに大きな影響力を持っていた清志郎さんが、『これをやったらどうなるか』は、当然、分かっていたはずです。ですからものすごい覚悟だと思いますし、怒りもあったし、一方で狙いもあったのかも知れません」