「絵ごころでつながる – 多磨全生園絵画の100年」(国立ハンセン病資料館)レポート。強制隔離を生きた彼らにとって、描くことはどんな営みだったのか
「絵を描くことが、ぼくのすべてだ」
展示の後半は、個人で活動した描き手に光が当たる。社会復帰する入所者も増えて「絵の会」の活動が衰退してゆくなか、様々な理由で園にとどまらざるを得なかった描き手が文化を担っていく。「ここに残る多くの描き手たちは、故郷に帰れず亡くなった。そんな状況下で彼らがつながりを求めたのはどういったことか、隔離政策の被害も含めて、絵画活動には様々なものが表れている」と、吉國。 「太平洋画展」「一水会展」「示現展」などの美術団体展に入選した国吉信。《桜》は、療養所が外に開かれる流れのなかで、地域の人で花見ができたらいいと入所者が植樹した桜並木を描いた。園内にある看護学校の戴帽式に着想をえた《キャンドルサービス》など、療養所の職員を描いた作品も多く残されている。 静岡の漁船の乗組員であり、かつて「地上に住む人間のうちで/なにが不幸かというならば/ふるさとを失つた人ほど/不幸な人はないだろう……」と残した望月章。帰れないふるさとを思いながら、富士山などの風景画を描いた。3冊のスクラップブックには、絵を描くために参考にした名画、新聞や雑誌から切り抜いた富士山の写真が残る。展示は「風景画」「スクラップブック」「職員とのやりとりを思わせる透析の自己管理表のドローイング」「絵筆」が台の上に水平に置かれる。 作品が残る唯一の女性の描き手である鈴村洋子は、巻物状の障子紙、はがき、カレンダーの裏、Tシャツなど、身の回りの素材に絵と言葉を綴った。作家が「歴史の証」と伝えた《現代絵巻》は、16巻、18mを超える大作。色とりどりの地蔵をモチーフに、日々の出来事や、訪問客、健康状態が書き込まれている。落ち込んでいるときに絵を描いていたという鈴村の祈りの言葉も。 鈴村が園内のひとりの友人に郵便で送っていた絵葉書も展示されている。自らを「山茶花ようこ」「どでかぼちゃ」「スズムラドングリコ」等と表記した絵手紙からは、うつりゆく季節や小さな生き物への眼差しを持ちながら暮らした鈴村の息づかいが聞こえてくるようだ。 展示の最後には、長浜清遺作詩集「過ぎたる幻影」の「喪失」が置かれている。岡山県長島愛生園で詩と絵を発表していた長浜清。1969年に絵を学ぶ目的で多磨全生園に転園したが、健康状態の悪化により絵を一枚も描くことがないまま亡くなってしまったという。 長浜の言葉を展示した理由について、吉國は語る。
「どうしても残された作品だけを見てしまうのですが、描き手の多くは作品を作るに至らなかったり、絵を描いてもモノが残らずに記録にも残らなかった人が多い。残されたモノだけではなく、詩や友人たちの証言をも手掛かりに歴史を見直していく必要がある」
「絵を描くことが ぼくのすべてだ。」という長浜の言葉は、「ぼく」を複数形に変化させて「絵を描くことが ぼくらのすべてだ」と、本展覧会のキャッチコピーにもなっている。多磨全生園の入所者にとって、描くことはどんな営みだったのか。作品から、そして形に残らなかったものから聞こえてくる声に耳を澄ませてほしい。
ShinoArata