<フィギュアスケート>羽生結弦 金メダルを実現させた海外生活と語学力
■海外生活、当初はまったく英語が話せなかった羽生 ソチ五輪で日本男子フィギュアスケート界、悲願の金メダルに輝いた羽生結弦は、17歳だった2012年5月、故郷の仙台を離れてカナダ・トロントに渡り、ブライアン・オーサーコーチの下、金メダル獲得を目指して海外生活をスタートさせた。 カナダに渡ってから1年7カ月。「(当時)まったく英語を話せなかった」(羽生)彼が、ソチ五輪で見せた英語での取材対応は、困難を乗り越えながら成長してきた、若者の向上心の象徴だった。 ■世界中のメディアに対し英語で対応 14日夜に行われた男子シングルフリー。前夜のショートプログラム(SP)で首位に立っていた羽生は、冒頭の4回転サルコウで転倒するなど、納得のいかない演技だったものの、後から滑ったSP2位のパトリック・チャン(カナダ)もジャンプでミスを連発。4・47点差で逃げ切った。豊かな表情も印象的な若きゴールドメダリストのもとには、世界中のメディアが集まった。 五輪の取材ゾーンは、大きくテレビエリアとペンエリアに分かれている。羽生はまず、テレビのエリアで10社以上の単独インタビューに応じた。その多くが海外メディア。ときにはボランティアの通訳が助け船を出すこともあったが、ほとんどは羽生自身が英語で受け答えをしていた。 例えば、演技が終わった直後にどう感じたかという質問にはこう答えていた。 I said 'Oh,my God!' I was so nervous and I was so tired. But I was surprised. I am not happy with my program . (「なんということだ!」と言っていました。とてもナーバスになっていましたし、疲れもありましたから。でも、(結果には)驚きました。ただ、プログラムの出来映えについてはハッピーじゃありません)