信長でも秀吉でも家康でもない…「東洋のローマ」を作り、当時の欧州で初めて絵画に描かれた戦国武将の名前
豊後のキリシタン大名、大友宗麟とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「日本伝統の諸芸に通じた趣味人であり、また西洋の文化も積極的に取り入れた。残された史料や遺跡を見ると、彼の和洋折衷の思考がよくわかる」という――。 【画像】アンソニー・ヴァン・ダイク「豊後大名大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル」 ■仏門に入りながらキリシタンになった戦国武将 もし日本が鎖国という道を選ばなかったら、と夢想することがよくある。16世紀後半の日本は世界に向けて開かれており、訪れた西洋人たちの目に映った日本は、彼らの文化との差異は大きくても、劣った国ではなかった。軍事的にも、大変な強国であるように映っていたことは、宣教師らが残した文書からも伝わる。 だが、国を閉ざしてからの日本は、海外からの刺激が失われ、文化的な爛熟や洗練こそ得られても、各分野で大きく発展するという機会を失った。外へ向ける目を200年以上にもわたって、ほとんど排除してきたのだから当然だが、欧米と対等に渡り合えるだけの軍事力など、もはや望むべくもなかった。 もし、16世紀後半の様相が継続し、西洋をはじめとする海外との交流が続いていたら、日本の景観も、日本人の文化的な意識も、まったく別のものになっていたのではないだろうか。安っぽい欧米コンプレックスが日本を覆うこともなかったのではないだろうか。 そんな夢想をする際に、真っ先に思い浮かべる往時の人物がいる。豊後(宇佐市、中津市を除く大分県)を拠点とした戦国大名、大友宗麟(諱は義慎)である。 「宗麟」という法号(仏門に入った人に授けられる名)を持ちながら洗礼を受け、唯一残る肖像画は剃髪して法衣をまとっているが、大分駅前広場に建つ像は洋服姿。実際、大友宗麟という一人の人物のなかに日本と西洋が、一定のバランスをたもって同居していた。
■ドイツの城に残されている絵画 鎌倉時代初期から続く名家の20代当主、大友義鑑の嫡男として享禄3年(1530)に生まれ、室町幕府12代将軍の足利義晴から一字を拝領し、義鎮と名乗った宗麟。 その人生の転機は天文20年(1551)、豊後府内(大分県大分市)の大友氏館に、イエズス会の創始者の一人で日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルを招き、直接引見して布教の許可を与えたことだった。 それは日本と西洋が本格的に邂逅した瞬間であった。だから、ヨーロッパでも慶事として記録され、そのときの会見の様子は、のちにフランドル出身の画家、アンソニー・ヴァン・ダイクが「豊後大名大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル」という題で、絵画に描いている。 それによって宗麟が得たのは、南蛮貿易による利益だった。大砲や硝石など、当時、戦闘に必要な物資などを、イエズス会をとおして購入できるようになったほか、中国や東南アジアとの交流を通じて、領内の経済的繁栄を得ることができた。 ■日本初の病院が開設された 当時、宗麟の本拠地は、現在の大分市街の東部にあった大友館だった。これは大友氏が豊後国の守護として造営した典型的な守護の城館で、一辺が約200メートルの方形の敷地を堀が囲んでいた。ザビエルが招かれたのもこの館だった。 その周囲に広がる、府内と呼ばれる城下町の規模は、現在の大分市長浜町から元町にかけての南北約2.1キロ、東西約0.7キロで、発掘調査によると、道路が格子状にもうけられ、武家屋敷と商家が混在していた。 そこには弘治3年(1557)、日本初の西洋式病院が開設された。その2年前、府内での布教活動に加わったポルトガル人医師のルイス・デ・アルメイダは、宗麟の庇護のもと、育児院を設置。そして2年後、ついに病院を開いたのである。内科は日本人修道士、外科はアルメイダ自身が担当し、日本初の外科手術も行われている。 続いて、天正8年(1580)にはコレジオ(神学院)も設置された。そんな町々にはヨーロッパのほか東南アジアや中国由来の品々があふれ、象や虎といった珍しい動物が運び込まれ、さまざまな国の人々が行き交っていたという。大友氏館の周囲からは、キリシタンの遺物であるコンタツ(ロザリオ)やメダイ(メダル)も多数出土している。 そして、「府内」という地名は、当時の宣教師たちの記録のなかで、織田信長の「安土」や豊臣秀吉の「大坂」と同等に扱われている。日本を代表する国際都市だったのである。