SNSにおける教養は「人を殴るための棒」...民衆に殺される時代に「ジャーナリズムの未来」はあるのか?
もっともジャーナリスティックに活動する媒体は『週刊文春』
2024年現在、もっともジャーナリスティックに活動している媒体は『週刊文春』である。週刊文春の報道がなければ、ジャニーズ事務所にも、宝塚歌劇団にも暴力は認められなかった。 つまり、かつて被害者はサバルタンとして、透明化されたままだった。ジャーナリズムには、事件を報道する役割だけが任されているのではない。その時代を生きる我々にとって、「何が事件であるか」を定義する責務がある。 ジャーナリズムに与えられたもうひとつの役割は、情報を誠実に検証することである。棍棒として使われる教養には、誠実さがない。相手を殴るためなら、ありもしないフーコーの新説を唱えてもいい。自分のファンがそう信じてくれるなら、陰謀論だって唱えて構わない。 だが、ジャーナリズムはそうではない。自分が中立である、正義であるとは信じない。自分が物知りだとすら思わない。 その代わりに、事実を積み上げる。証言者の話を地道に集め、共通項を洗い出し、信ぴょう性を検証する。利害関係のない複数の人間が、似た証言をしているのだからと、被害に真実相当性があると信じて報道する。 あるいは、インフルエンサーが心から真実だと信じ、語っている言葉であっても裏取りをし、ときには疑惑を投げかける。仕事がなくなるリスクを背負いながらも、権力者が疎外し、透明にしたがっている人々の話を聞く。 完全情報のニュースなど存在しえないが、事実を積み上げることでピースを埋めていく。それが、ジャーナリズムの善性であろう。 特に、『アステイオン』のような雑誌が生き残るならば、「教養ある人たちのユーモラスな同人誌」の枠を超えて、知的ジャーナリズムの手本たる存在となっていくしかあるまい。 当然の情報として共有されるニュースの方向性へ誠実な疑問を投げかけ、検証する。そして、少し先の未来で解決されるべき社会課題を提唱する。見過ごされてきた人たちの言葉を見つけ、マスに広める。 それが、いつSNSで石を投げられて死ぬかわからない我々が、筆を......いや、スマホを捨てられない理由である。 最後に、この前提を揺るがす小話をしたい。 少し前に、うつの薬を飲んだことがある。効果はてきめんだった。注意力が身について、仕事をテキパキ進められた。その代わり、知的に誠実でありたいとか、この世の真実を検証したいといった意欲がまったくなくなってしまった。 私にとってジャーナリスティックな態度とは知的な衝動性を必要とするもので、うつの治療薬がそれを奪ってしまったのだ。 当時は仕事を続けるために薬を捨てたが、もしかすると、ジャーナリズム的な精神を持つこと自体が、今後は病理となり、治療対象になるのかもしれない。そうなれば、ここに連ねたジャーナリズムのありようはプレッジ(宣誓)でもなんでもなく、ただの闘病日記となる。 ただひたすらプラグマチックに成長した社会において、たしかにジャーナリズムは病理そのものだ。私はペシミストでいるのが好きなものだから、それくらい破滅的な未来予想図を、ジャーナリズムにも抱いておくとしよう。
トイアンナ(恋愛・キャリア支援ライター)