《ブラジル》「天声人語」荒垣秀雄氏の娘から 終戦時のブラジル絡みの思い出届く
「嬢ちゃんの手紙を読んで旧友荒垣一家が無事であることに安堵した。小生の送ったグラニュー糖がかくも多くの人にお福分けされていたとは。赤ん坊や幼い子供までが餓死しているとは知らなかった。故国の様子が今当地では一切伝わらないので今後もどしどし教えてほしい」と。 (当時在ブラジル邦人が祖国を熱愛するあまり日本敗戦を信ずるか信じないか、いわゆる「勝ち組」「負け組」に分かれて流血の惨事が起こっていたことも知りませんでした) 宮坂氏からは有り難いお言葉を次々と頂戴しました。「あなたの正しく美しい日本語は日系ブラジル人の日本語の教科書に採用したい。老生は若き日海外雄飛の野望を抱きましたが妻の理解は得られませんでした。やむなく妻を内地に残したまま別居は想定外の長きに及びました。その老妻からの便りを待つよりも嬢ちゃんからの手紙を鶴のように首を長くして待っております。老生は嬢ちゃんの『あしながおじさん』を志願します。懐の続く限り小包を送ります・・・」
短大二年生の時、宮坂氏は何十年ぶりかで帰国され、「あの嬢ちゃんに会いたい」と父を通じてお申し出があり、まだ焼け跡生々しき新橋で生まれて初めての上等な鰹の藁焼きをご馳走になりました。時は初鰹の五月でした。手間のかかった下拵えに見事な包丁さばき。翌年私は婦人雑誌社に就職し、料理担当記者になりましたがこのときの贅沢な経験がとても役に立ちました。 「幾別春」氏(宮坂氏の俳号)に触発されて父も俳句をひねるようになった。東京への望郷の思いを俳号「冬虚」に託し。42歳の若さで「天声人語」担当を拝命、異例の17年の長きにわたり自然への柔らかなまなざしが好評、声なき民の呟きの代弁者でありました。 宮坂氏は日本の文化を熱愛し、正しく美しい日本語を教えるために日系2世3世のための日本語学校の運営にも長く尽力されました。私の在籍した婦人雑誌社でも、一年後輩の婦人記者が宮坂氏の学校で三年ほど教師をしていたと知りました。ブラジル邦人のかたがたの句作を拝見して日本文化への愛着もひとしおなのだと驚嘆しました。 かくも長きにわたって愛の御手を差し伸べてくださった恩人宮坂国人氏に紙上を借りて限りなき敬意と御礼を申し上げる次第です。 元朝日新聞リオデジャネイロ支局長 荒垣秀雄 次女 宮崎満佐恵 92歳 2024年7月