加藤登紀子さんが二日市保養所跡の水子地蔵へ「女性たちは命をつなぐため一歩を踏み出した」引き揚げの苦難と世界の現状を重ね歌う 福岡
FBS福岡放送
こちらは、福岡県筑紫野市の特別養護老人ホームにある水子地蔵です。19日午後、この水子地蔵をシンガーソングライターの加藤登紀子さんが訪ねてきました。あまり知られることのない戦後史に思いをはせ、加藤さんが語ったこととは。
加藤登紀子さんは80歳。「百万本のバラ」をはじめ、心に残る歌を数多く世に送り出してきました。 ことし5月にコンサートを開く縁で、19日午後、福岡県筑紫野市を訪れました。 ■加藤登紀子さん(80) 「先にお参りをします。」 手を合わせたのは、腕の中の赤ちゃんを優しく見つめるお地蔵様です。戦後、日本人女性たちが極秘裏に中絶した胎児を供養する水子地蔵です。 ■加藤さん 「すべての人にそれぞれの思いと、事情と、いろいろなものがあったと思いますが、女性たちはいつも命を明日につなげるために一歩踏み出したんだと思って。私はここに立っていた人たちのことを受け止めたいと思います。」
日本が太平洋戦争に敗れた後、福岡市の博多港には現在の中国東北部・旧満州や朝鮮半島からおよそ139万人の日本人が引き揚げてきました。 その中には、ソ連兵や現地住民の一部から性暴力を受け、望まない妊娠を強いられた女性たちもいました。当時の資料には「不法妊娠」と記されていました。
そうした女性たちが博多港から向かったのが、現在の筑紫野市にあった医療施設、二日市保養所です。そこでは、女性たちを守るため、当時は違法だった人工妊娠中絶が極秘裏に行われていました。 二日市保養所では、記録が残る9か月間だけで「不法妊娠」の女性218人を受け入れたとされています。
加藤さんは旧満州のハルビン生まれで、戦後の引き揚げを経験した一人です。終戦翌年の10月、2歳の時に、母・兄・姉と4人で長崎県の佐世保港に到着しました。 加藤さんは前日の18日、私たちの単独インタビューに応じてくれました。 ■加藤さん 「二日市の保養所の話を聞いた時に、ふるさとに帰るに帰れない、そういう誰にも言えないつらい状況、命が助かったのにその先どうするのという人たちがいっぱいいたんだということは、本当に人が生きる、戦争というものをくぐり抜けて生きるということがいかに大変なことかと。縮図のように、いろいろなことが全部そこに見える気がしますね。」