赤井英和の一本の電話がすべての始まり…大阪名物「串かつだるま」 年間240万人が訪れる超人気店、成功の軌跡
大阪名物といえば「串かつ」。2000年代ごろ、大阪・新世界のローカルフードだった「串かつ」が大阪を代表する名物グルメとなり、多くの人に愛されるようになった陰には“浪速のロッキー”こと赤井英和氏が大きく関わっていたことをご存じでしょうか。大阪名物「串カツ」の裏側には大阪の名店「串かつだるま」と赤井英和氏の絆の物語がありました。大阪の名物、知られざる男たちの奮闘秘話に迫ります。 【動画】「串かつだるま」誕生秘話! 赤井英和の無茶振りから、店を引き継いだ会長の思いは…
赤井さんからの呼び出しで…串かつ店を継ぐことに!?
いまや関西に16店舗を構える「串かつだるま」を運営している株式会社一門会。「串かつだるま」は年間240万人が訪れる大阪の超人気店です。現在の会長である上山勝也は2000年ごろ、石油卸売会社の副部長として働いていました。転機は2001年、浪速高校ボクシング部の先輩・赤井英和からの一本の電話でした。 呼び出されて話を聞くと…子どもの頃から「だるま」の常連だった赤井は、お店の大将から「もう歳やし閉めようと思てんねん」と吐露されました。だるまの串カツが大好きだった赤井は「日本の名物・串かつだるまが無くなったらあきまへんで」と大将に言ったところ、「ほな赤井さんやってくれや!」と返され、困った挙句連絡したのが、部活の後輩の上山だったのです。 「だるま」を継いでほしいと言われた上山ですが、ポジションのある仕事もしているし妻子もいる…。とんでもない無茶ぶりを本当は断りたいところでしたが、上山さんにとって赤井はヒーロー的な存在。最終的に引き受けたのだそうです。
前途多難のスタートから先輩の後押しが…
上山がお店を引き継いだ当初、従業員は全員ボクシング部の後輩。上山同様、調理接客に不慣れなメンバーばかり…。上山は「わしらは飲食に関しては全くの素人や、目標はお客さんに変わってないなって言わすことや」と話し、代替わりの3ヶ月間、先代の味を徹底的に学ぶことに。 料理に詳しくないからこそ、「だるまの味は絶対に変えたらあかん」という使命感が生まれ、今に繋がったのだろうと上山は振り返ります。そして2001年11月、“新生”「串かつだるま」がオープンします。すると店はいきなり大繁盛! その理由は、赤井がテレビに出演するたびに「串かつだるま」を行きつけの店として紹介していたため。赤井のおかげで、店の知名度をどんどん伸ばしていきました。