小林幸子が語る芸能生活60年 ラスボス、さちぴ、ボカロにAI「今後も面白くなりそう」
「先生はお子さんがいらっしゃらなかったから『養女に』って言われたのを、母がそれだけはと断り、四谷三丁目のアパートで独り暮らし。古賀先生の事務所へレッスンに通い、『チビ』と呼んで可愛がっていただきました。覚えているのは先生が『僕の歌が世の中に歌われなくなる日が早く来てほしい』とおっしゃったこと。そのときは意味がわからなかったけど、後で聞くと、戦後、道端でお腹を空かせている子がいっぱいいて、自分は何もできないけど、歌を作るとその子たちも歌うんですって。だから時代を奮い立たせる歌の力はすごいけど、そういう歌がなくても済む日本に早くなってほしいっていう意味だったと。今こうして話していても涙が出てきちゃうんですけど、古賀先生は曲の裏側に強い思いを込めて作っていた、本当にすごい先生だったんだなあって思います」
■最初はB面だった「おもいで酒」
デビュー曲は20万枚のヒットとなったが、その後はドラマの脇役を演じたり、キャバレーで歌ったりして家計を支えていた。そうした苦労の末、巡り合ったのが1979年1月発売の「おもいで酒」だった。
「私にとって人生を変えた歌で、今ここまで守ってくれている歌です。最初はB面だったんですよね。でも伊東のホテル、ハトヤで歌ってたら、『おもいで酒』だけものすごい拍手が来るんですよ。そのうち会社から『有線で1位になってるよ』って電話がかかってきて。『それ、違う歌だと思うよ。〇〇酒って曲、多いから』って答えたくらい信じられませんでした(笑)。それまではキャンペーンに行っても、歌い終わると捨てられた歌詞カードを拾ってズタボロになって帰ってきていたのに、今度はみんなが私を見てくるんですよ。オリコンもちょっとずつ上がってきて、9月についに総合1位になって、紅白出場も決まりました」
だが残念ながら、恩師の古賀は78年に亡くなっていた。
「先生のお墓に報告に行きました。『あと1年早かったら、先生の前に報告ができたのに、申し訳ございませんでした』って。この歌は先生が最後に『チビ、頑張れな』って運をくださったのかなって思いますね」