愛人に「死ぬ気で恋愛してみないか」とアタックして心中 文豪・太宰治の「身勝手すぎる不倫」
自殺未遂を複数回繰り返したのち、1948年、愛人と入水自殺を遂げた文豪・太宰治。心中した理由については明らかになっていないが、当時、太宰は人気作家であったため、「心中相手の女性に強く望まれ断れなかった」「彼女に殺されたようなものだ」と相手の女性を責める声も多かった。しかし、背景を知ると太宰の身勝手さも見えてくる。どのような経緯だったのだろうか? ■非難を浴びた心中相手・山崎富栄 1948年(昭和23年)6月13日、小説家・太宰治が愛人の山崎富栄と玉川上水に入水自殺したニュースは新聞などでも大きく取り上げられました。その中でとくに非難を浴び、炎上したのは太宰ではなく、心中相手の山崎富栄だったのです。 戦後、太宰治の人気は急上昇し、彼は大作家の一人に数えられるようになっていました。そんな時期に心中を企てるのは理屈にあわず、富栄から「一緒に死んで」と強く望まれたのを断りきれなかった。いわば彼女に殺されたようなものだ……という説が、太宰研究家の相馬正一などによって唱えられています。 しかし実際はセンチメンタルな話ではなかったようですね。急に人気作家となった太宰は仕事量の激増に耐えきれず、気晴らしに酒やタバコ、クスリを濫用したので、持病の肺結核が急速に進み、喀血を繰り返すようになります。 心身の疲労は激しく、生命が自然に尽きるまでは、とても生きていられない気になった太宰が、純情な富栄を丸め込み、心中に持ち込んだあたりが真実に近いのではないか……と思われてなりません。 ■愛人の太田静子をモデルにした『斜陽』 いうまでもなく太宰は既婚者で、正妻は津島美知子です。当時、太宰には太田静子という愛人がいましたが、彼女はどちらかというと太宰の恋愛対象というより、静子が没落した裕福な医者の娘だったのが重要で、太宰が当時執筆しようと考えていた『斜陽』のヒロイン・かず子のモデルになってもらおうと利用する部分が大きかったように思われます。 太宰は、彼女の日記を手に入れようと画策し、47年2月後半、静子に求められるがまま、小田原・下曽我の大雄山荘に彼女を訪ねました。そして「あなたの赤ちゃんが欲しい」という静子の願いを叶えるかわり、日記を借りることに成功した太宰は代表作『斜陽』を完成させることができたのです。 ■「死ぬ気で恋愛してみないか」と愛人にアタック 富栄と太宰が出会ったのは、太宰が静子を妊娠させた直後のことでした。47年(昭和22年)3月、屋台のうどん屋で飲んでいた太宰は、美容師だった富栄と偶然出会い、共通点もあって惹かれ合いました。その2ヶ月後、太宰は富栄に「死ぬ気で恋愛してみないか」というキザなセリフで愛を告白、二人は愛人関係になります。 富栄は静子の妊娠を知ると、ライバル心を掻き立てられ、自分も太宰の子を産みたいと強く願いました。しかし、47年6月24日の日記には両者の不穏なやり取りが記されています。 「(僕の命は)あと二、三年、一緒に死のうね」という太宰に、「御願い。もう少し頑張って」と返す富栄でしたが、いつしか彼の子供を授かるか、それが無理なら、太宰と死ぬことこそが自分の使命だと思いこんでしまったフシはあります。 しかし48年(昭和23年)、心中の1ヶ月前まで、富栄はこんな決意を日記に書いています。「どうしても子供を産みたい。欲しい。きっと産んでみせる。貴方と私の子供を」。太宰に心中を持ちかける女とはとても思えないのです。 ■浮気相手の子どもに「治」の字を奪われ… その前年、47年11月12日、太田静子が太宰の子を出産しています。15日、静子の弟の通が太宰を訪ね、子供の認知と命名を頼んだところ、太宰は自分のペンネームの「治」の文字を与え、その女児は「治子」と名付けられたのです(後の作家・太田治子氏)。 その場に富栄も同席しており、その場はともかく、太宰と二人っきりになると、富栄は、あなたの大事な名前の一文字をあの女の子に与えるなんて……と朝まで泣いて抗議しました。 太宰の担当編集者だった野原一夫によると、「お前にはまだ修の字がのこっているじゃないか(※太宰治の本名は津島修治)」と慰めるしかなかったそうです。しかし、太宰本人は、正妻以外との間に子供の誕生など望んでおらず、「このうえ、(さらに子供が)できたら、首括りだ」という本音を、野原には話していました。 自分も母になりたいという悲しい願いを日記に書いた翌月、それを叶えられぬままの山崎富栄と太宰治はお互いの身体を赤い紐でしっかりと結びあい、玉川上水に身を投げてしまったのです。背景を知ってしまうと、炎上したのがなぜ、山崎富栄だけだったのか……、と訝しくなりますね。 画像出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)
堀江宏樹