文化人の権威として大成した藤原公任
4月14日(日)放送の『光る君へ』第15回「おごれる者たち」では、恣意的な政治を加速させる藤原道隆(ふじわらのみちたか/井浦新)に反発する弟・藤原道長(みちなが/柄本佑)の姿が描かれた。一方、まひろ(のちの紫式部/むらさきしきぶ/吉高由里子)は、旅先で藤原寧子(やすこ/財前直見)と出会い、感激していた。 ■兄弟間で著しく行き違う政治観 藤原道隆が摂政として政務を主導する一方、弟の藤原道兼(みちかね/玉置玲央)は酒に溺れ、すさんだ日々を送っていた。見かねた藤原道長は、道兼の支えになろうと必死に説き、道兼を立ち直らせた。 一方で道長は、朝廷内の調度や装束に多額の金が使われていることを知り、道隆に諫言(かんげん)したものの、少しも聞き入れられる様子がないことに、不安と不満を抱いている。 そんな折、まひろのもとにききょう(ファーストサマーウイカ)が訪れる。ききょうは、一条天皇(塩野瑛久)の中宮となった定子(さだこ/ていし/高畑充希)の女房に任命されたという。喜びを語るききょうの横顔を見ながら、まひろは自分ひとりが何も変わらぬ境遇であることに嘆息する。 さわ(野村麻純)に誘われ石山詣に出かけたまひろは、石山寺で偶然に、『蜻蛉(かげろう)日記』を著した藤原道綱母(みちつなのはは)こと藤原寧子と出会う。『蜻蛉日記』を愛読していたまひろは感激したが、寧子から妾(しょう/めかけ)として苦しんだ心の痛みを書き記すことで癒やしていたと聞かされた。その言葉は、まひろの胸に深く染み渡った。 翌日、帰途についたまひろたちが目にしたのは、川辺に捨てられた無数の遺体だった。京の都に、疫病が流行し始めていたのだった。 ■政治家としては早くに挫折した公任 藤原公任(きんとう)は円融(えんゆう)天皇・花山(かざん)天皇の関白を務めた太政大臣・藤原頼忠(よりただ)の長男として、966(康保3)年に生まれた。母は、醍醐天皇の皇子である代明(よしあきら)親王の三女である厳子(げんし)女王。 名門・小野宮流の嫡子で、若い頃から文芸に秀でていたという。時の権力者・藤原兼家は、公任のあまりの多才ぶりに、自身の子である藤原道隆、道兼、道長の三兄弟に向かって「公任はすべてに優れており、お前たちはその影さえ踏めないだろう」と嘆いたという。道隆、道兼はいたく恥じていたところ、道長だけは「公任の影ではなく顔を踏んでやる」と豪語したらしい(『大鏡』)。 980(天元3)年に元服。982(天元5)年には従四位下、983(永観元)年には左近衛権中将、985(寛和元)年に正四位下と、当初は順調に出世を果たしていた。 しかし、兼家が政権を掌握した頃を起点として、華々しい出世街道に陰りが見え始める。道長がトップの座につく頃には、公任の政治的影響力は極めて弱まっていた。 政治的地位を保つため、道長に追従する態度を取ることがしばしばとなり、藤原実資(さねすけ)に「(道長に)媚びへつらって情けない」と批判されている。 一条天皇の時代には、源俊賢(みなもとのとしかた)、藤原斉信(ただのぶ)、藤原行成(ゆきなり)とともに四納言と称されており、決して政治家としての能力が低かったわけではない。政務手続きや儀式の詳細を記した『北山抄』を著すなど有能な一面もあったが、道長の権勢には当時、誰も太刀打ちできなかったということだろう。 公任はいつしか政治家としての栄華を諦め、秀でていた学芸の道で頭角を現していく。 道長の権力が全盛の頃には、歌壇の指導的役割を担う存在となっていたようだ。『枕草子』には、清少納言と『白楽天』の漢詩についてのやり取りを行なったことが書かれており、自身の和歌に対する思いを論じた『新撰髄脳(しんせんずいのう)』を著すなど、歌を詠む者たちの尊敬を集めるまでになっている。 ある時、道長が舟遊びをした際に、漢詩、管弦、和歌の3つの舟を浮かべ、公任に「どの舟に乗るか」と尋ねたことがあった。これはつまり、公任がいずれの芸事の才能にも等しく恵まれた逸材、と見なされていたことを意味する(『大鏡』)。その類まれな才は紫式部も認めており、公任に和歌を披露する際に「歌はもちろん、読み上げ方にも気を配らなくては」と細心の注意を払っていた様子が伝わっている。 藤原長能(ながとう)という歌人は、公任に歌の表現を批判され、食事が喉を通らなくなり、挙句の果てには死んでしまったらしい(『袋草紙』)。 一方で、文化人としては大成したものの、政治家としては少し至らない部分も見受けられる。藤原斉信に位を追い越された時は、怒りのあまりに辞表を提出し、斉信と同位に並ぶまで数か月にわたって出仕を拒んだという。名家出身というプライドが、彼をそうさせたのかもしれない。 立て続けに娘を亡くしたからか、1024(治安4)年に官職を辞し、1026(万寿3)年に解脱寺(京都府京都市)にて出家。晩年は多くの人の来訪を受けたという。文化人としてだけではなく、一個人としても、多くの信頼を集めていたと考えられる。1041(長久2)年1月1日に病没。享年76だった。
小野 雅彦