“絶滅”間近の国鉄型 201系電車は何がすごかったのか 登場45年、関西で最後のとき
省エネに寄与した201系
登場から45年。そろそろ引退もささやかれる国鉄型201系電車は、JR西日本にわずかに残るのみです。そのようなベテラン電車の経歴と、かつては1000両あまりが在籍した同車両がなぜJR西日本で残っているのか、振り返ってみます。 【写真】若い人は知らない? 中央快速線・総武緩行線の201系 201系は省エネを前面に押し出した車両で、運行初日の出発式は「新型省エネルギー電車(201系)運転記念」として「省エネ201」のヘッドマークが付けられたほどでした。 では、どう省エネなのか――それは制御装置に、チョッパ制御を採用したことでした。これは半導体を用いたものですが、列車の消費電力を力行(加速)時と制動(ブレーキ)時で相殺する回生ブレーキを実現でき、消費電力を減らせます。 回生ブレーキとは、車輪の軸回転を発電機と考え、その運動エネルギーで発電して・消費して作動させる電気ブレーキのこと。チョッパ制御と組み合わせると、高速域から低速域まで安定して動作し、特に頻繁に制動する通勤形電車では、回生ブレーキの省電力効果が期待できると考えられたのです。 加えて発電ブレーキ用の抵抗器も不要となるため、車両を軽量化できるメリットもありました。さらに1973(昭和48)年のオイルショックは、省エネ車両開発の追い風となりました。こうして実現したのが201系で、デビューは1979(昭和54)年のことです。
国鉄の負担になるほど高価だった
201系は省エネだけでなく、現代の車両に通じる新機軸をいくつも備えていました。台車には301系電車以来の空気ばね台車を採用し、乗り心地を改善。座席も1人当たりの幅を明確に示したデザインで、側扉と座席を仕切る袖仕切り形状は、肘掛けとしてよくできていました。 側窓は下段上昇・上段下降式のユニット窓ですが、上段窓にバランサーが付けられていました。それまでの103系電車は窓が重く開けにくかったのですが、大きく改善されたことは驚きでした。当時は通勤形電車で側窓を開ける風習があり、窓を開けて走ることは珍しくなかったのです。 好評をもって迎えられた201系は、1981(昭和56)年より量産車が登場し数を増やしました。試作車の車体構造や材質を再検討した結果、1両2.1~2.8tの軽量化が実現したほか、ブレーキの回生率の向上も図られ、より省エネな電車となりました。201系の走行システムは地下鉄向きでもあり、1982(昭和57)年より車体をアルミニウム製にした地下鉄乗り入れ用203系電車も製造されました。 しかし増備を続けるうちにコストの高さが問題とされました。高価なチョッパ制御機器を搭載した201系は、電動車同士の比較で103系の9859万円に対し、1億4085万円(1982年当時)でした。危機的な経営状態にあった国鉄にとって、201系の製造は負担だったのです。 この結果、1984(昭和59)年の増備車からコストダウンが図られます。側窓がバランサーのない2段上昇式となったり、車両番号表記をステンレス切り抜き文字から転写式にしたりなど、仕様の変更が行われました。しかし、1両1億3697万円とほぼ価格は下がりませんでした。このため、1985(昭和60)年で201系の増備は打ち切られます。