『セクシー田中さん』何度も思い出したい名シーンの数々 “世界”を面白くする大切なこと
田中さん(木南晴夏)の傍らに笙野(毎熊克哉)がいてほしいと、願わずにはいられない
そして本作は世界の見方を変えてくれるドラマでもある。「全ての女性を愛する既婚者」三好、「女性に対する偏見まみれの昭和脳」笙野、「チャラリーマン女子力高め」小西と、公式サイトの相関図に記載があるように、一見現代社会における「女性たちの敵」を具現化して分散したようなキャラクター設定の男性陣と、世代の異なる、それぞれに生きづらさを抱えた2人の女性の対峙を描いたドラマのように見える。 でも実際にはそうではなくて、それぞれが根底に持つ女性嫌悪や男性嫌悪、ならびに自分で自分にかけた呪いに対し、そうならざるを得なかった理由を解き明かすとともに、そういった感情を飛び越えて、人間同士互いを尊重し合うことの重要性を伝えている。 第6話で田中さん自身が、それまで自分で閉じてしまっていた扉を開けて、外の世界に足を一歩踏み出すように。そしてそれがなんだかんだ笙野の言葉に背中を押されたからであるように。自分と違う人間だからといってシャットアウトせず、ほんの少しでも向き合って見たら、世界はちょっとだけ面白くなる。 一方、田中さんのベリーダンスには、背筋を伸ばして生きたい、「正解のなさ」と向き合いたいという大きな理想とは裏腹に、「あまりにもあっけなく、いとも簡単にポッキリと自信を打ち砕く」対象であるところの「恋する相手」三好の隣にいたいという切実な恋心もあって、だからこそリアルで面白い。 では、三好への恋心を失ったら彼女のダンスへの思いはどうなってしまうのか。純粋に「ダンスをすることへの喜び」だけが残ったら、その時こそ、本当の意味でベリーダンサーとしての人生が始まるのだと思う。なぜなら第7話で田中さんと朱里が影響を受けていた映画『マダム・イン・ニューヨーク』の台詞のように「自分を助ける最良の人は自分」なのだから。でも一方で、できることなら、彼女が自己を確立し、美しく踊る傍らには、彼女を人として心から尊敬し、尊重する笙野がいてほしいと、願わずにはいられないのである。
藤原奈緒