田嶋陽子「82歳で決めた終の棲家は東京のシニアハウス。二拠点生活の軽井沢の家も、山奥から平地に引っ越して。仕事と趣味、好きなことを能天気に」
フェミニズム(女性学)研究の第一人者として、メディアで活躍してきた田嶋陽子さん。35歳から何度も引っ越しを繰り返した末、ついに終の棲家を見つけました(構成=篠藤ゆり 撮影=大河内禎) 【写真】シニアハウス内のレストランで舌鼓 * * * * * * * ◆35歳の時、家を買ったから 東京で初めて家を買ったのは、法政大学の助教授になった35歳の時でした。私は子どもの頃から母に「悪い子だから」と厳しく育てられ、いつ家を追い出されるかと恐怖におびえていました。だから大人になったら誰にも追い出されないように自分の家をほしいと思っていました。 就職すると同時に必死に頭金を貯め手に入れたのが、東京・立川市の一軒家でした(馬が飼いたかったから一軒家にしましたが、それは諦めました)。 ところが、私が女だからという理由で、銀行がなかなかお金を貸してくれない。いやぁ、悔しかったですよ。間に入った建設会社が必死に銀行を説得してくれ、晴れて持ち家を手に入れました。 ただ、通勤に2時間もかかって大変。そこで数年後にそこを売って、もう少し職場の近くに引っ越しました。そうやってじりじりと大学に近づいてゆき、55歳の時に四谷に家を建て、10年間暮らしました。 ほぼ30年間勤めた大学を退職してから、そこを売って、今度は新幹線に乗るのに便利なように、東京駅に歩いても行ける距離のマンションに引っ越し。それを売却して、終の棲家として選んだのが、今のシニアハウスです。
35歳の時、子どもの頃からの思いを貫いて家を買ったからこそ、ここに辿り着くことができたとも言えます。「おぉ、今までよくがんばったじゃん」と、自分で自分を褒めてやってもいいんですけど。まぁ、死に場所を見つけただけのことだと言えば、それまでです。(笑) 軽井沢と縁ができたのは30代。テニスに夢中で、軽井沢によく通っていたんです。当時は新幹線も通っていなかったので、とてもじゃないけど日帰りはできない。泊まるところをと思って、40代で拠点を作りました。ただ、お金がなかったから、傾斜がきつくて安い土地を買い、家を建てたんです。 ところがこの家に思わぬ使い道ができました。テレビに出るようになると、バッシングがすさまじくて、東京にいると落ち着かない。ボロボロになった心身を休めるため、仕事が終わると軽井沢にこもるようになりました。 山奥だったので、人の気配もなく、たまに訪れるのはキツネとタヌキとサルくらいだったのもよかった。その生活が今も続いているわけです。 ただ、コロナ禍が始まってしばらく経った頃、山を下りて散歩していたらいきなり胸が苦しくなって歩けなくなり……。その時は大事には至りませんでしたが、もし人気のない所で倒れたらそのまま誰も見つけてくれない、なんてこともある。 もうすぐ80歳だし、山を下りなきゃだめだな、と思いました。2階を仕事場にしていたのだけど、正直、階段を上るのもきつくなっていた。そこで親しくしている建設業者に軽井沢の平地で土地を探してもらい、また即決。思い出の家は売りに出すことにしました。 こういう時、決断が早いのは、たぶん日頃からいろいろ考えているからでしょうね。何かきっかけがあると、すぐに行動に移せる。新しい土地に建てた家は倉庫から仕事場、リビング、寝室に至るまで、階段なしで行き来できる平屋にしました。