杉江松恋の新鋭作家ハンティング 機械の体を手に入れた〈わたし〉の家族史『ここはすべての夜明けまえ』
この文体にやられたのだ。 間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』(早川書房)に心がざわつかされている。新人の作品に触れることにはいつも新鮮な喜びがある。未知の才能と出会うのだから当然だが、それにしてもここまで気を惹かれることはないように思う。 『ここはすべての夜明けまえ』は、第11回ハヤカワSFコンテストにおいて特別賞を獲得した作者のデビュー作だ。単行本刊行前に『SFマガジン』に一挙掲載され、話題になった。切迫した心の響きが作品から伝わってきたからだろう。SFというジャンルを超えて波及する可能性を秘めている。 手記小説の形式をとった作品である。「二一二三年十月一日ここは九州地方の山おくもうだれもいないばしょ、いまからわたしがはなすのは、わたしのかぞくのはなしです」という書き出しで小説は始まる。極端に漢字が少なく、基本的にひらがなばかりで書かれていることにまず興味を惹かれる。これは何か意味があるのだろうか。 書き手は続ける。「ほんとうははなすじゃなくてかくだけど」「わたしはかくよりもおしゃべりのほうがずっとすきで」というように、話し言葉をそのまま書き写したような調子で文章は続いていく。句点が少なく読点で切れ目が作られるので、たしかに書き手のおしゃべりを聞いているようだ。〈わたし〉が「かぞく史」を書いているのは「おとうさん」に頼まれたからだという。「一〇一年まえ」にそれを言った父はもうこの世の人ではない。「ゆう合手じゅつをうけてながいじかんをいきれるわたしはやることがなくてひまだろうから」、ひまつぶしにそうすることを勧められたというのである。 ここで言及される融合手術が、本作をSFたらしめている設定である。単純に言えば生身の人体を機械に置き換えることで不老長寿を実現する技術で、〈わたし〉はそのため25歳の時の外見をずっと保っている。自分の記憶もメモリーとして保存しているのだ。〈わたし〉はこの手術を自ら強く希望して受けた。融合手術を受ける前には合法的な自殺措置を望んでいたのである。 なぜ機械の体を手に入れたのか。生身の〈わたし〉を捨てたかったのか。 それが小説の前半部を牽引していく謎となる。家族史を語る手記なので、〈わたし〉は自分以外の成員のことを書く。母親は〈わたし〉を生んだときに出血が止まらなくなって亡くなった。他のきょうだいは皆家を出てしまい、〈わたし〉は父親と二人きりで暮らしている。ヤングケアラーなど、さまざまな社会問題が書き手の語る生活ぶりからは透けて見える。作者は思慮深く、曖昧な線で融合手術前の〈わたし〉を形作っていく。そこに太い主線を引くのは読者に任された務めだ。読み取ることは難しくないと思うので、あえて空白のまま残しておこう。一つだけ、融合手術を受けると出産もできなくなるから卵子を保存しておくことも検討しておいたほうがいいと言われた〈わたし〉が「そうなんだ、こうやってくるしみながらいきているのはなんのためっていつかこどもをうむため、まだ存在しえいないもののためにわたしはいきて」いるのかと気づく場面があることは書いておきたい。そのあとにこういう文章が続く。 「だったらわたしはもとから人間じゃなかったのだ。/ゆう合手じゅつをうけてよかったことだい二位!/ちゃんと人間じゃなくなれたこと!」 主人公が女性であること、その感じている生きづらさが女性ならではのものであることが大きな意味を持つ小説である。〈わたし〉は融合手術を受けて歴史の流れから半ば脱落するが、きょうだいや親族は2020年代以降の日本が巻き込まれる時代のうねりを体験していく。そうした未来予想図がさりげなく挿入されており、〈わたし〉が100年を生きる間に世界がどうなってしまったのかは、詳述されないが十分察せられるように書かれている。 そもそも未来の話なのに、なぜ〈わたし〉が家中からかきあつめてきた紙に手書きをしているのかといえば、「コンピューターやたん末はもううごかないから」である。ひらがなが多用されるのも漢字は「画すうがおおくてつかれなくともまんどくさいから」なのだ。つまり、このひらがなの多い文体は作中人物である〈わたし〉の意志を反映したものであることがわかる。 本作を読んだ人がダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』(ハヤカワ文庫NV)を想起するのは文体からの連想だろう。同作のひらがなで書かれた文体にはもちろん意味があった。『ここはすべての夜明けまえ』は同作に外見上は酷似しつつ、まったく違った意図で書かれた文体によって、読者の心を制御していく。〈わたし〉の心は文体にそのまま表されているのである。滑るように早く語れることにはそうする価値があり、注意深く言及を避ける事柄には〈わたし〉の心をひるませるものがある。重要な役割を担って登場するシンちゃんという男性は〈わたし〉の甥にあたる人物だが、彼について語ることが中心となる最後の数ページは、早瀬をゆく水のような勢いで書かれており、そこにはまったく漢字が使われていない。流れる思考をそのまま書き留めたい〈わたし〉の心がそうした形で表現されているのだ。 主人公はまったく漢字を使えないわけではなく、抽象的な概念もきちんと理解できる知力を持っている。その証拠に、小説の後半で〈わたし〉を理解しようとして接近してくる人々が話す言葉は漢字の多い、一般的な文章で記述されているのである。その集団に属する、トムラさんが〈わたし〉に言う。 ―― さんに手を差し伸べるのは、私たちが考える正義を遵守するためです。弱者を助けることは、私たちの最優先事項です。そうすることで、私たちは自分たちのつながりをより強固にできます。言い換えれば、私たちのためでもあるのです。 利他的行為によって初めて自身の存在意義を見出す。他人とつながることでしか自分の位置を確認できない現代人の心性を、トムラさんは背負った登場人物だ。この優しさは小説全体を包みこむものである。主人公もまた、自分を愛することが難しく、自己中心的にふるまうことができない人間だ。 トムラさんの言葉で主人公の名前を と略したのは誤字ではない。小説内で〈わたし〉の名前は明かされず、どうしても呼びかけなければならないときはこのように空白で表現されている。自分を示す言葉を〈わたし〉は書くことができないのだ。自分が自分であることに自信がある人はいる。我思う故に我ありというように、自分を中心にして考える人もいる。〈わたし〉はそうではないということだ。空白を抱えて漂っていくしかない〈わたし〉たち。 同時代を生きる人々が、言葉にしたくてできずにいた気持ちを、本作は主人公による100年後の述懐という形で表現したのである。物語の終わりに〈わたし〉は、これからしたいことを語る。さまざまなゆめがある。でもまずは「わたしはわたしと、ちゃんとともだちになるところから」。世界に〈わたし〉の居場所ができることを心から望む。
杉江松恋