渡辺満里奈と家族のための料理「結婚して19年。なぜ今こんなにご飯を作ることに疲れてしまっているのか」
そもそも! なぜ母親ばかりがご飯を作らなくてはいけないのか! ……いや、いけないわけではないんです。今は男性が作るのが当たり前の家もたくさんあるし、ふたりで作る場合もあるだろうし、私の友人夫婦も夫が食事を作っていたりします。それは結婚する前に、「私、料理はしないよ」と宣言し、それを了承してのことだったそうです。 私が結婚するときはそんなこと考えもしませんでしたし、私が作るのが当たり前だとも思わずに、当たり前にやっていました。夫は洗い物やお風呂掃除や、家じゅうのゴミを集めて捨てるなど、彼ができる限りの家事はしますが、料理はできませんから今のところお任せはできません。もっと年をとったら料理の練習をするそうなのでその時を気長に待つことにします。 ではなぜ今こんなにご飯を作ることに疲れてしまっているのか。どうも、絶賛やる気が出ないモードに入っているようです。結婚して19年。まだ子どもがいないときは気楽で、外食も多くしたし、そんなに悩むこともなかったような気がします。しかし継続とはなんと苦しいものでしょうか。疲れてくると、「なんで毎日私ばかりやらなくちゃならないのか」という不機嫌な芽がムクムクと急激に枝葉を大きく広げ育ってくるのです。それでもメニューが決まるとその枝葉はスルスルッと小さくなっていきます。それがわかっているのか夫は「夕飯何食べたい?」と聞くと絶対に何かしらひねり出します。「なんでもいいよ」という言葉は決して言わないと決めているかのように。
しかし本当はわかっているのです。これは自分で自分を苦しめているのだと。だっていやなら作らなくてもいい。他の方策を考えればいいではないか。できる限り手間を省けばいいし、「品数少ないかな……」なんて思わなくてもいい。結局「こうでなくちゃいけない」と自分自身を縛りつけていることに気付くのです。「こうでないと」に縛られたくないと常々思っているのに。この呪縛を解くのはなかなか難しいなぁと思ってしまいますが、でも呪縛を解けるのは自分自身だけです。 そして一方で思うのです。継続とはなんと尊いものなのかと。ずっとご飯を作り続けている人たちを心から尊敬します。それに決して派手ではない日々の営みは、どう考えても愛おしかったりするんです。きっともっともっと年を重ねた時に、家族の「慣れ」た見た目や味が、当たり前のもの=「家の味」になっていたりするのかもしれません。 いつか不機嫌な私も、華やかではない当たり前の食卓を楽しく囲んでいたことも、子どもたちに懐かしく思い出してもらえたら。私が母の何でもない野菜炒めを何も言わずモリモリ食べていたように、私の麻婆豆腐をお皿いっぱい食べてくれる日が来たらいいな。そんな思いを抱きながら、盛り上がり期と停滞期を繰り返しまた今日も私はご飯を作ります。 なんて書いていたら、夫が番組でいただいた宇和島の鯛めしが届きました。ツイてる! 鯛めしと、豆腐とねぎのお味噌汁、そしてお漬物。今夜はそれにしようかと思います。