【震災とイエ(2)】家々の土台が剥がされていく
海と生きてきた荒浜の漁師の人々のくらし。仙台港が建設される前の昭和30年代ごろまでは荒浜の海から漁に出ており、波の荒い荒浜の海に負けぬよう、「エグリガッコ」と呼ばれる先の尖った特殊な船を用いて漁をしていた。砂浜から人力で船を海に出すのも戻すのも、大変な労力が要る。漁から帰ってきた船を漁師の家族や住民たちで引き、手伝ってくれた住民には獲れた魚を「おふるまい」していたという。海のそばに建つ神社「ハッテラ様」には、いつも海での安全と大漁を祈願した。 2011年3月11日。地震後、佐藤さんは津波から船を守ろうと父と向かった仙台港で、慣れ親しんだ海の、豹変した姿を見た。「海に、小さい渦巻きが、右巻きのもの、左巻きのもの、何万もの数が渦巻いていたんです。こんな光景があるのか、と信じられない気持ちで見ていた」
堤防を超える波を見て、追いかけてくる津波から、車で必死に高台へ逃げた。寒さに震えながら車内で夜を過ごした翌日、津波が襲来した高台の下へ降りていくと、「核戦争の後のような光景が広がっていた」 船は奇跡的に無事だった。「父は無事だった船を見て、『仕事をしろということなんだ』と悟ったみたい。自宅再建をしなきゃいけないこともあって、震災後は死にものぐるいで働いていて、体重が5キロ減った。それだけ無理をしているんだね」と、佐藤さんは気遣う。
自宅跡地は昨年夏に仙台市が設定した買い取り期限を迎えたが、佐藤さんは、この土地を売らなかった。今年中には市内に自宅を再建する予定だが、これからも荒浜の自宅跡地を売り払う予定はない。「この場所があるからこそ、おじいさんおばあさん(両親)がほっとする。ここで亡くなった先祖も含めて、私たちがこれまでずっと生きてきた場所。心の拠りどころなんです」 佐藤さんの小屋のもとには今も、荒浜の元住民が訪ねてくることがある。「通りがかったら、お茶っこ飲まいん、って誘うの。そしたら、5、6人とか、10人くらい集まってくることもあるんですよ。それで世間話をして、『またここで待ってっからね』って言って別れるんです」