語り部が伝える大阪大空襲「戦争をしてはいけない」
語り部が伝える大阪大空襲「戦争をしてはいけない」 THE PAGE大阪
大阪市城東区役所がこのほど区民ホールで戦後70年事業「語り部が伝える大阪大空襲」を開催し、多くの区民が大阪大空襲を体験した語り部の報告に耳を傾けた。区内の中学生がトークセッションに参加し、「貴重な体験談を、友だちや家族に伝えて受け継いでいきたい」などと感想を述べた。
家族4人に焼夷弾が直撃
大阪大空襲の体験者7名の証言を、約40分にまとめたDVD映像「大阪大空襲」の上映に続いて、語り部の伊賀孝子さんが登壇。伊賀さんは大阪戦災傷害者・遺族の会代表として、空襲死没者名簿の調査作成に携わるほか、国に空襲被害者に対する補償を求める活動などに取り組んできた。 伊賀さんは浪速区で家族4人が焼夷弾の直撃を受けたときの様子を、自宅付近の地図を示しながら報告した。「私はやけどの熱さに耐えかねて防火用水に飛び込みました。国民学校1年の弟は全身にやけどを負い、父に背負われて逃げましたが、まもなく死にました。『苦しい』とも『水が飲みたい』とも弱音を吐かず、うわごとで軍人勅語をつぶやいていたのが不憫でした。母親がいないことに気づいて、父と必死に探しましたが、防空壕の出入り口で焼夷弾を浴びて即死状態で発見されました」(伊賀さん) 母と弟を失い、残った父親と伊賀さんも負傷して終戦を迎えた。伊賀さんは「戦争をすると、勝った国にも負けた国にも嘆き悲しむ家族が出てしまう。子や孫やひ孫などの大切な命を守るため、絶対に戦争をしてはいけないと訴え続けていきたい」と結んだ。
大空襲の翌日も軍需工場へ出勤
トークセッションに伊賀さんのほか、大阪大空襲の体験を語る会代表の久保三也子さん、区内の中学生5人が参加し、フリージャーナリストの矢野宏さんが司会進行を務めた。矢野さんによると、大阪への空襲は50回を超え、そのうち100機以上のB29爆撃機による攻撃を大空襲と呼び、犠牲者は1万5千人におよんだ。 久保さんは高等女学校在学中に体験した勤労動員と大阪大空襲について報告した。 「戦地へ送られた男性に代わって女学生が軍需工場で働くことになった。勤労即教育で、授業はほとんどない。1日12時間労働の激務だったが、軍国少女の教育を受けていた私は工場勤務を誇りに感じていた。工場を休んではならないと教わっていたので、1945年3月13日の大空襲の翌日も、歩いて工場へ出勤しました」(久保さん) なぜ語り部になったのか。「大空襲の直後、工場へ向かう際、真っ黒焦げになって亡くなっている方も見ました。声をかけることもできず、手を差し伸べてもあげられなかった人たちのことが忘れられないので、体験を報告している。元気に動ける会員が少なくなりましたが、これからも戦争をしてはいけないということを、ちゃんと伝えなあかんと思っています」(久保さん) 伊賀さんは「空襲の体験を聞かせてよと頼まれて、ぽつりぽつりが話し始めたのが、語り部になったきっかけ。この平和が1日でも長く続くよう、招かれるままに体験を話していきたい」と謙虚に語る。 中学生からは「きょう聞かせていただいた貴重な体験談を、まず友だちや家族に知らせて広げていきたい」という意気込む声とともに、「たいへんな思いをされた体験談を、僕らが受け継ぐのは難しいかもしれない」という率直な発言も聞かれた。 矢野さんは「戦争をしないために、まず知ることが大切。そのうえで声をあげることが大事。私たちが次の世代にどんな社会を手渡していくのかが、今問われている」と訴えた。