彼は誰時に|旬のライチョウと雷鳥写真家の小噺 #30
彼は誰時に|旬のライチョウと雷鳥写真家の小噺 #30
私ごとではあるのだが、やはり春になり夏に近づくにつれ、いろいろな物事が動き出し忙しくなる。たとえば写真展などをする際は公共の施設で開催することが多いため、年度末の決裁が下りるタイミングで一気に始動するのだ。それとは別にライチョウの撮影は毎年決まった時期に行なっているため、場合によりピンポイントで破茶滅茶に慌ただしくなる。さあて、頑張るとしよう。 編集◉PEAKS編集部 文・写真◉高橋広平。
彼は誰時に
ライチョウを観察、撮影するため、私の場合は決まった山域の決まった時期に足を運んでいる。そうすることで彼らの生活の全容と変化、また各個体の個性を掴むことができるようになる。ようは下界と高山とを定期的に行き来する定点観測みたいなものである。 ライチョウ探索の基本は夜中から始まる。きわめて早朝、独特の鳴き声を披露しながら寝ぐらから表に出てくるのを見つけるためだ。山域や個体、ほかには天候によっていくらか誤差があるのだが、居るのはわかっているが、どこにいるのか見当がつかないことの多い彼らを探すのには一番手っ取り早い手法である。けっこう前の話になるが、それこそ某有名ライチョウ研究者の先生が図らずも同じ方法を用いてライチョウを補足していると知ったときは「おれ、やるじゃん」と自画自賛したものである。 誰かが教えてくれるわけでもない野良育ちの私の場合は、とにかく毎日のように彼らを探して稜線を歩き回って身に付けた知識であったので、言うなれば「公式」ともいえる学術研究者と同回答を導いていたことに嘆息した。ど変態の思考の行き着く先は案外似たようなものなのだろう。 山を嗜む者ならば、だれもが息を飲むような絶景を横目にひたすらライチョウを探す。 眼下に雲海が広がっているなどはよくあることなのだが、そういったものが日常と化した私の景観に対する感動指数は相当に鈍いものになってしまった。正直、そういった景色を見て感動することのできる大方の人たちを少々うらやましくも思う。美しい景色に対しての私の基準は「そこにライチョウを当てはめたときに絵になるか否か」である。そういった理由が先立つので、ライチョウがそこに居たら似合うであろう情景に関しては脳内シミュレーションをこれでもかと繰り返している。 繁殖期を迎えたこの時期、見張りに立つオスを魅力的に撮ろうと数泊の予定で某山域に陣を構える。山域ごとにライチョウの好みの場所があるため、実況見分は欠かせない。見方を変えれば、その場所ごとの楽しみがあるとも言える。 生きものが生活していれば、必ず痕跡が残る。具体的にはフンや抜け落ちた羽、場所によっては足跡など色々ある。フンに言及すればライチョウの残していくものには種類があり、通常のキャラメ○コーンの如き形状のものやドロっとした盲腸糞とよばれるものがあり、古いものや新鮮なもの、食べたものの影響で色も変わる。そういった情報をもとにあれこれと想像力を働かせて検証を重ね、それの蓄積で発見精度を上げている。 陣を構えたこの山域でも同様の作業を行ない、最初の1日を下調べに費やす。集めた情報からおおよそのアテを付け、ほどよい時間に起床、幕営地を出立する。稜線をしばらく移動し彼らの活動が始まるであろう時間の少し前に出現予想地点に現着。この日は残念ながら風が強く、推定10m以上の風速であったが、見渡す空は雲ひとつない快晴であった。強風で聴覚はあまり役に立ちそうにない状況ではあるが、ならばと意識して両の眼の瞳孔を開き視覚での感知を試みる。ちなみに砂埃が眼球に直撃しては元も子もないので風向きには極力注意し、耳にも手を当てて指向性を付けるなどやれることは全部する。あとは彼らの気分次第であるが、結果は……。 今回は「彼は誰時に」という銘をつけた一枚。 風に乗り、大きく弧を描きながら視界のなかに舞い降りた1羽のオスのライチョウ。まだ日の昇らぬ時間から彼の縄張り内で卵を温める妻を守るために独り見張りに立つ。晴天の空に雲海と、陽が昇るまえの独特の山吹色の光の帯とその上の深い蒼。それだけでも一般的には十分に美しい景色だとは思うが、そこにライチョウが入ることによりその画はとてつもないものに変貌を遂げる。私が見たいと思う美しい景色というものは、つまりこういうものである。