「戦後レジームからの脱却」 -「アイデンティティー」は国の基盤- 久保田勇夫の一筆両断
私は子供のころから読書が好きであった。中学時代は文学作品を多く読んだが、高校に入り、吉川英治の「三国志」から中国に格別の興味を持つようになった。「水滸伝」「金瓶梅」に進み、転じて中国の歴史を追った。太古から南宋の滅亡までの歴史「正史」をベースにまとめた十数巻の「十八史略物語」を読み、さらにそれ以降の「続・十八史略物語」に進んだ。 昭和37(1962)年に東京大学に入ったが、当時の駒場キャンパスは中国共産党革命礼賛の雰囲気であり、私も革命を率いた毛沢東の基本的論文や、「大西遷」を含む中国共産党の展開を記述したエドガー・スノーの「中国の赤い星」などを熱心に読んだ。教養学部での上原淳道助教授の「東洋史」は試験ではなくレポートの提出で単位を与えるということになった。私は、中国共産党のリーダーたちが次々に政敵を倒していった手法が、いわゆる中国四千年の歴史に出てくるそれと同じであるという具体的事例を示し、大変革を標榜する中国共産党もその本質は中国古来の伝統を引き継いでいることを述べた。評価は「優」であった。 ■複雑怪奇な国際社会 大蔵省に入り、そこに30年以上勤務したが、その後半は専ら国際部門を手がけた。日米金融摩擦がピークとなった1980年から90年代の中ほどにかけてのほとんどの日米金融交渉に直接関わった。この国は個々の人物の能力もさることながら、組織として極めて強靭な国であり、その長期的かつ戦略的な対応は日本の比ではないと感じた。 米州開発銀行の増資交渉の際、その真の相手はヨーロッパの主要国であり、日本の頭を押さえたい独、伊であった。この交渉で、かつてヒトラーが述べたとされる「条約とは一片の紙切れに過ぎない」という思想が健在であることを知った。 関税局長時代、ASEM(アジア・ヨーロッパ)関税局長・長官会合の創設にかかわった。その時、同じアジアではあるが、イランは特異な国であるという印象を受けた。また、村山富市総理の中東訪問に随行した。サウジアラビア、エジプト、シリア、ヨルダン、イスラエルという相対立する諸国をまとめて訪れるという、今では考えられないミッションであった。この地域が、われわれの予想をはるかに超えた地域であること、それぞれの国がかなりユニークであることを感じた。イスラエルについては特にそうであった(ちなみにわれわれが面会したラビン首相は、その1、2カ月後に暗殺された)。 こういう中で私は、世界は実に多種多様であるというということを学んだ。われわれが思いもつかないような考え方に立脚した組織や国が共存している。その中でただ漫然と、他もわが国と同様であるという前提で世界に対処するのは極めて危険なことであろう。