「空母撃沈11隻、撃破8隻」と大ウソの大本営発表がなされたが…のちの「特攻」にもつながる「台湾沖航空戦」の大損害の実態
今年(2024年)は、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」が始まってちょうど80年にあたる。世界にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後80年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の30年にわたる取材をもとに、日本海軍における特攻の誕生と当事者たちの思いをシリーズで振り返る。(第3回) 【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…! 第2回『「海面の白波」を水陸両用戦車と見間違え…敵機上陸の「誤報」で通信設備や重要書類を処分し、司令部としての機能を失った「日本海軍の大失態」』より続く
特攻作戦の萌芽
昭和19年夏、海軍が体当り攻撃隊の編成を始めたのと並行して、海軍軍令部は、来るべき日米決戦で「敵機動部隊を撃滅」するための新たな作戦を練っていた。全海軍から選抜した精鋭航空部隊と、臨時に海軍の指揮下に入る陸軍重爆隊で編成された「T攻撃部隊」による航空総攻撃である。 「T」はTyphoonの頭文字をとったもので、敵戦闘機の発着艦が困難な悪天候を利用して、敵機動部隊を攻撃するというものだ。 ただ、精鋭部隊とはいっても、飛行機の性能も機数も敵より劣り、実戦経験のない搭乗員が多くを占める現状では、まともに考えれば敵機が飛べないほどの荒天下で有効な攻撃ができるはずがない。 実現不可能なこの作戦を発案・推進したのは、航空特攻の推進者でもある軍令部参謀・源田実中佐であり、採択したのは軍令部第一部長(作戦部長)・中澤佑少将である。T攻撃部隊は、福留繁中将が率いる第二航空艦隊の指揮下に入ることになった。
精鋭部隊、悪天候下での「健闘」
昭和19年10月12日、台湾が米機動部隊を発進した艦上機による大空襲を受けるや、福留中将はT攻撃部隊の発進を下令する。鹿屋基地を発進した索敵機が、夕方までに、台湾東方海域に3群の敵機動部隊を発見した。作戦にふさわしく、洋上には台風が発生していた。 鹿屋から出撃した陸上爆撃機「銀河」、一式陸上攻撃機計56機、沖縄を発進した艦攻23機、陸軍重爆撃機22機が夜間攻撃を敢行し、 「撃沈2隻、中破2隻、艦種不明なるも撃沈、中破各1は空母の算大」 という戦果を報告した。 10月13日も、台湾は激しい空襲にさらされたが、T攻撃部隊は鹿屋から45機の攻撃隊を出撃させて、薄暮攻撃を行った。 10月14日、総力を挙げて攻撃隊を出すことになり、南九州の各基地から新手の400機とT攻撃部隊の残存兵力が、またフィリピンからは海軍、陸軍あわせて170機を攻撃に投入することとされた。そのうち、じっさいに攻撃に参加できたのは約450機である。 10月14日午後、T部隊指揮官・久野修三大佐は、12、13両日の総合戦果を、 「十二日空母六乃至八隻轟撃沈(内正規空母二~三ヲ含ム) 十三日空母三乃至五隻轟撃沈(内正規空母二~三ヲ含ム)」 と報告した。 絶えて久しい敵空母撃沈の報に、 〈多大の戦果を挙げつつあることは確実と思考し、海軍部の空気は興奮の坩堝と化した〉 と、防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書45』(大本営海軍部・聯合艦隊<6>第三段作戦後期)は述べている。