俳優・三浦浩一、本当は落ちていた伝説の“東京キッドブラザース”。律儀な行動で逆転入団「もしあの時ネコババしていたら…」
柴田恭兵と敵対する大役
三浦さんが東京キッドブラザースに入ったときは、柴田恭兵さんはすでに在籍していて、純アリスさんは客演としての参加だった。 「稽古場に行ったら僕の役なんかないんですよ。その当時はコミューン運動、理想の家族というか、そういう運動がアメリカでもあって、キッドもコミューン運動をやっていて。 鳥取県の砂漠に、『サクランボ・ユートピア』(故郷を持たない者たちのユートピアを作るために立ち上げたプロジェクト)というコミューンを作ると言って、そんな運動をやっていたんだけど、それがポシャッてすったもんだになって。 『黄色いリボンPART II』というのは、それを題材にしたお芝居で、全然血の繋がってない人たちが集まって家族を作って…という話なんですよ。それで、僕は最初役がなかったんだけど、『じゃあお前、馬やれ』って言われて馬をやらされたり、ニワトリや家畜をやらされたり、色々していて。僕は家畜でもいいからやろうと思っていたんですよ。 ヒーローは柴田恭兵さんでそのコミューン運動を潰すダーティハリーという役をやることになっていたのが、ザ・テンプターズのドラマーだった大口広司さん。最後は、ヒーローとダーティハリーが戦うことになるんですけど、稽古が始まっても大口さんが来ないんです。 僕は家畜役をやっていたんだけど東さんに『お前ちょっと大口さんの代わりにやって』って言われて稽古場でやっていたわけですよ。それで、大口さんは結局本番にも来なくて。嘘みたいな話でしょう? 大口さんが来なかったおかげで、僕は家畜役じゃなくてダーティハリー役をやったんですよ。 黒ずくめの衣装で、最後の最後に客席に降りて行って、ブーツでマッチを擦ってタバコに火つけて、『俺はダーティハリーって言うんだ』と言って、撃ち殺されちゃうというエンディングなんですけど。 大口さんが来なかったおかげで、柴田恭兵さんと敵対するような大きい役をいただいてみたいな(笑)。だから僕は本当にスレスレなんですよ。これまでの全部がスレスレで何とかなってきたという感じですね(笑)」 1980年、三浦さんは『風神の門』(NHK)に主演。このドラマは戦国末期を舞台に、霧隠才蔵、猿飛佐助ら若き忍者たちが、時代の荒波と闘いながら活躍する様を描いたもの。三浦さんは主人公・霧隠才蔵役を演じた。 ――いきなり時代劇に主演と聞いたときはいかがでした? 「それは、びっくりもいいところだったですね。キッドに入ってしばらくして、新宿・歌舞伎町の裏、職安通りから少し脇に入ったビルの地下に『シアター365』という、1年間365日毎日芝居をやる劇場をキッドが作ったんですよ。 たのきんトリオが出るちょっと前のエアポケットのようなときで、その時期にシアター365で毎日芝居をやっていたので、『セブンティーン』とか『プチセブン』とか、中学生、高校生の女性が見るような雑誌の記者の方たちが目ざとく、毎週のように記事を書いてくれたんです。そうしたら、女の子たちが山のように押し寄せて来て…という感じで(笑)。 そんなときに、東さんが『今日はNHKの人が見に来るからみんな頑張ってね』みたいなことを言ったので、なんだろうと思っていたんですよね。 そうしたら、女の子ばかりいるところにスーツ姿のおじちゃんたちがゾロゾロと来て、それがNHKの方たちだったんですよ。それで、芝居が終わってしばらくしてから、『三浦、水曜時代劇の『風神の門』が決まったよ』って言われて、『ええーっ?』って(笑)。 そのときに僕のお芝居を見てくれてということだと思うんですけど。多分NHKの方たちは、いろんな劇団で新人の俳優がいないか探していて、たまたま目に留めていただいたということなんでしょうね」 ――決まってから大変だったのでは? 「すごく目まぐるしかったですね。すぐにカツラ合わせとか衣裳合わせとか、色々始まって。だから不思議でしょうがないです。だって、キッドのファンは僕のことを知っているにしても、世間の人は三浦浩一なんて、どこの馬の骨みたいな感じで(笑)。本当にそうなんですよ。 だから、金子成人さんという脚本家の方もそうですけど、プロデューサー、演出家の方もよく三浦でいこうってなったなあって(笑)。 それでカツラを作るために頭の大きさとか、クリ(かつらの縁の線のこと)を合わせて。そういう偉い人たちがいるところでメイクの栗山さんという方が出来上がったカツラを僕の頭に被せたら、みんながホッとしたっていうね(笑)。 そういう空気を感じたんですよ、僕自身も。そのカツラがすごく合っていたんです。僕の顔と最初のイメージに。皆さんもこれはいけるってちょっと思ったんじゃないですか。そんな感じでしたね。 僕は普通のリハーサルもやったことがなかったんです。キッドは台本がないんですよ。だから、ちゃんと台本があってみんなで読み合わせをして…という、そういう当たり前のことをやったことがなかったんです。 キッドは稽古の朝、その辺の喫茶店で東さんが紙に鉛筆でセリフを書いて、それを稽古場に持ってきて、『じゃあ、今日は三浦と誰々ちょっと』って呼ばれて。その紙を見ながらとりあえずやるという作り方だったので、1冊の台本をみんなで顔を付き合わせてやるっていうのが初めてで下手っぴなわけですよ。 セリフを読んで、そこにちゃんと感情をのせてやるということができてない。だから僕のすぐそばにいる孫八役の北見(治一)さんに撮影が始まってしばらくしてから、『三浦君、顔合わせで(座ったまま)読み合わせをしたときに、あまりにもひどくて僕は椅子からずり落ちそうになったんだよ』って言われましたよ(笑)。 でも、ちゃんとからだを動かしてやるようになってから、何とかなるかなって思ったけど。あのときの共演者の方もすごい人ばかりだったんですよ。竹脇無我さんとか多岐川裕美さんをはじめ、そうそうたる人たち。そんな中に僕がド新人で入ってきたものだから、みんな『大丈夫かな?』って不安だったと思います。 『風神の門』は、25歳の頃から撮影が始まって、放送は26になる年でしたね。あの作品のおかげで僕の顔と名前が一応全国区になって、それはやっぱりNHKの強みですよね、本当に。あれがなかったらどうなっていたかわからないです」