【光る君へ】遠慮がちな「彰子」 “うつけ中宮”を国母にした紫式部の教えとは
父・道長を強く恨んだできごと
その後、彰子にとって、父である道長を恨まざるをえない状況が訪れた。 彰子は亡き定子の遺児で、一条天皇の第一皇子(すなわち常識的には東宮になって即位する皇子)を、親代わりとして8年にわたって育ててきた。むろん一条天皇は、敦康の即位を願っていたが、彰子もまた、自分の息子(すなわち道長の孫)である第二皇子の敦成親王が生まれたのちも、一条と同様、敦康が先に即位することを望んでいた。 一条天皇は在位が25年にもおよんだが、それは異例の長さであって、常識的には、敦康が先に天皇になっても、のちに敦成が天皇になれる可能性は十分にあった。『栄花物語』には、後継選びの際に、彰子が何度も道長に、敦康を東宮にするように申し入れたと記されている。だが、まったく聞き入れられなかった。すでに40歳を超えていた道長は、一刻も早く天皇の外孫にならなければ、その機を逃すことになりかねない。だから、彰子の願いは到底聞けなかったのだが、彰子は納得できなかったようだ。 彰子が父を恨んだという話は、藤原行成が自身の日記『権記』に、後に聞いた話として記している。寛弘8年(1011)5月、病に倒れた一条天皇が譲位を決意した際、道長は一条の意志を東宮に伝えに行った。そのとき、道長は彰子の局の前をとおりながら、声もかけずに素通りしたというのだ。 行成によれば、彰子は父を「恨んだ」とのことだ。実際、一条天皇は中宮彰子の夫であった。夫(道長にとっては婿)の一世一代の決意を聞かされながら、当事者たる妻(道長にとっては娘)には伝えない。彰子は、自分は父の意に沿うように生きてきたが、結局は、父の政治のための道具にすぎなかった、と痛感したのではないだろうか。ちなみに、これが記録に残る彰子のはじめての肉声である。
実資が絶賛した賢いキサキ
こうした経験が、おそらく彰子の成長につながった。そして、遠慮がちで女房に指示ひとつできなかった彰子は、明らかに変わっていった。 『光る君へ』では秋山竜次が演じている藤原実資の日記『小右記』には、一条天皇が死去してすでに2年近く経過した長和2年(1013)2月のこととして、こんな記述がある。彰子の住まいである枇杷殿で、道長主催の宴会が開かれる予定だったが、中止になった。決定したのは彰子で、彼女の主張は以下のようなものだったという。 最近、三条天皇の中宮で彰子の妹である妍子が、宴会を頻繁に開いていて、公卿たちは困っているのではないか。私自身、夫を悼んで悲しんでいるが、公卿たちは連日の宴会で負担を強いられて疲弊している。中止にするのが適切だ――。実資は「賢后と申すべし。感あり感あり」と、彰子の判断を絶賛している。 こうして公卿たちと協調し、彼らの人心を掌握した彰子。長和5年(1016)に息子の敦成親王が即位(後一条天皇)してからは、ひたすら高みに登っていった感がある。その2年後、三条天皇の長男の敦明親王が東宮の位を返上すると、彰子の下の息子である敦良親王が東宮になり、彰子は天皇と東宮の母になった。冷泉天皇と円融天皇の兄弟以降、それぞれの子孫が交互に即位する「両統迭立」が前例となっていたが、ここでそれが終わり、その後しばらくは、彰子の血統こそが皇統になった。