R-1優勝者・街裏ぴんくが語る下積み時代、“地下”で切磋琢磨していた“地上”の芸人たち、悪役俳優事務所を4か月で辞めた過去
コワモテフェイスとピンクのスーツでうさんくささを漂わせつつ、ネタが始まるとウソしかつかない「架空漫談」で観客を惹(ひ)き込む、『R―1グランプリ2024』の王者・街裏ぴんくさん。ここにいたるまでの20年あまり、なにがあっても、お笑いのことだけを考えてきた。ついに実を結んだ、街裏さんのTHE CHANGEとは。【第2回/全5回】 ■【画像】悪役俳優時代を彷彿とさせる街裏ぴんくの運転免許証写真「人相がいかつ過ぎる……!!」 2004年、大学在学中にコンビを結成してから苦節20年。2024年に『R―1グランプリ』(フジテレビ系)王者に輝いた漫談家・街裏ぴんくさん。これまでの道のりは、松竹芸能に1年弱所属し、吉本新喜劇のオーディションの最終選考に落選し、地下劇場で修行したり……と、紆余曲折を体現している。 「上京する前の大阪時代は、ぼやき漫談をしていたんです。でも、2012年に上京して東京でやっても、ほんまに半年くらいの間、1回もウケなかったんですよ。大阪では反応があったのに、ビクともせえへんくて。"なんでウケへんねん!”というストレスから食い物に走って、上京半年で20キロも太りました。なかの芸能小劇場のエントリーライブにも出ていたんですけど、ウケへんから、ドン・キホーテに面した通り、あるやないですか。あそこの道で、“うわあああああ――――!”とか叫びながら帰っていたんですよ」 ――それは怖いですね!(笑) 「ねえ、めっちゃ怖いですよ。叫ばずにはおれへんくらいの感じで家に帰っていました。おもろいヤツを集めて主催ライブもやっていたんですが、それもお客さん入らないし。もうなんもうまいこといかへん! という感じで、いろいろと試していました。そんなときに、後輩芸人のひとりと出会ったんです。そいつが、"浅草のライブに出るのはどうですか?”と誘ってくれたんです」
下積み時代の原動力は“綾小路きみまろ”
浅草のライブ──浅草リトルシアター。「世界で一番小さな劇場」のキャッチコピーの通り、客席30ほどの小さな劇場で、ほぼ毎日午前中から夕方まで「爆笑!お笑い六区」というライブを開催、若手芸人が切磋琢磨している。 「それまでは、エントリーフィー3000円とか払って出ていたんですが、浅草のライブは"場所は遠いけど、エントリーフィーがかからないんでどうですか? 1日3回、平日でも舞台を踏めますよ”って。それを聞いて、“お世話になるわ!”言うて。自分たちでチラシを配りながらお客さんを呼んで、ほんまにお客さん1人だったときもありました」 半年ウケなかったフラストレーションゆえか「ウケなきゃ」という焦燥感から、1年間は週5回も舞台を踏んでいた。 ――週5回! 当然バイトもしながら、ですよね。 「そうです。夜勤で朝から晩まで働いて、そこから寝ずに浅草の舞台に行く……というめちゃくちゃなことをしていました。本当は絶対に寝たほうがクオリティも上がるんですが、ようやっていたなあと思いますよ。毎日のように嫁にネタを見てもらって、コンビニバイトに行って朝まで寝ずに働いて、新作のネタを書いて劇場に行って」 ――そんな生活で、ネタを毎日!? 「とにかく試さな、と思っていたので。ウケるネタがないとなったら、次の日も行く意味がないので、ずっと新しいネタを考えていました。ほんまに手を変え品を変え、“こんなんはどうや!? こんなんは!?”という感じでやっていました。いまは『架空漫談』でやると決めているから、ある程度自分でレールを作ってできますが、このころはマジで毎日0から1を作り続けていて」 まさに修行である。家では頭をフル回転させ、舞台ではネタのほかに客を巻き込んでエピソードトークを繰り広げ、現在の確固たる土台となっている話芸を身につけていった。 ――当時の原動力は? 「まだ9年目やったし、辞める気もさらさらないし。とにかくウケたい一心。お笑いが好きやったから。ほんまにそれしかやりたくない! という衝動でした。いまもそうですけど、“好きやから”に尽きますね。あと、漫談は希少価値があると思っているんです。少ない人口で“漫談家としてとんでもない存在になって、スターになって、俺が絶対に引っ張ってやる!”と。目指せ(綾小路)きみまろさん、といいますか、それくらいの存在にならな、と思っていました」