阪神・藤川球児新監督が船出 『ヘッドコーチ』は「置けなかった」というのが正解のようで…《バランス内閣》の運命はいかに―。
◇コラム「田所龍一の『虎カルテ』」 今年3月から始まったコラム『岡田監督アレやコレ』も監督の突然の退任でやむを得ず終了。筆者より1歳年下、同世代で頑張る岡田野球をあと1年は見られるだろう―と思っていただけにとても残念だ。さて、気持ちを入れ替え新コラム―といわけで、藤川ニュー阪神の「気になる部分」を考える、題して「田所龍一の『虎カルテ』」をスタートします。 ◆笑顔晴れやか…藤川球児新監督が背番号「22」を披露【写真】 10月22日午前10時、甲子園球場で藤川阪神の記念すべき秋季練習が始まった。背番号「22」が付いた真新しいユニホームに身を包んだ藤川監督が動けば、大勢のカメラマンやトラ番記者たちも一緒に大移動。練習初日とあって藤川監督はグラウンドのあちこちでコーチと話したり、投手、野手陣に分かれて練習する選手たちの輪の中に入って笑顔で語りかけた。 「シーズンに入ったらプレーヤーと監督、スタッフと監督という形になる。でも、今はオフシーズン、これから秋季練習や秋季キャンプに入っていく段階。まずは人と人として話をしました」 どの選手たちも笑顔、笑顔。「岡田監督のときには初日からピーンと張りつめた緊張感があったのに…」という声も聞こえたが、44歳の若い監督だけに、選手との<距離>が近いという証明だろう。それよりも気になったのが、前日(21日)に発表されたスタッフの顔ぶれだ。 監督 藤川 球児(44) 総合コーチ 藤本 敦(47) 投手チーフコーチ 安藤 優也(46)、投手コーチ 金村 暁(48) 打撃チーフコーチ 小谷野栄一(44)、打撃コーチ 上本 博紀(38) 外野守備走塁チーフコーチ 筒井 壮(49) 1、2軍打撃巡回コーチ 和田 豊(62) 内野守備走塁コーチ 田中 秀太(47) バッテリーコーチ 野村 克則(51) ブルペンコーチ 片山 大樹(49) 2軍監督 平田 勝男(65) やはり「ヘッドコーチ」は置かなかった。いや、「置けなかった」というのが正解のようだ。あるOBはこう解説した。 「報道でいろんな名前が挙がったように、藤川監督の希望を受けて球団も数人の候補に当たったようだが、すべて断られてしまった。それぞれに《受けられない理由》があったと聞いている」 そのOBによればその筆頭はヤクルトでヘッドコーチを務めた宮本慎也氏という。以前に中日・立浪監督の要請を「同じセ・リーグ同士ではまずい」と断っているだけに、立浪氏への義理からも阪神の要請を受けるわけにはいかなかったようだ。 ヘッドコーチの仕事は大変だ。試合にのめり込むことなく先々のイニングの展開を予想し、状況に応じた代打の起用や準備、投手継投の手配、相手チームの作戦などを的確に監督にアドバイスしなければいけない。そして、今回の藤川阪神で最も重要なヘッドコーチの役目は《選手への厳しい姿勢》といわれている。甘い顔をすればすぐに緩む選手の気持ちを厳しい態度で締め直す。この2年間はその役を岡田監督自身が務めてきた。 DeNAとのCS戦に敗れた日、最後の囲み会見で岡田監督はこう《予言》した。 「頑張ってるやつは(森下のように厳しく)言うた選手だけやろ。(他は)野放しにしてたら全然やもんな。(来季)大変やで、怒る人間がおらんようになったら」 その締め役、怒り役を誰が担うのか。立場からいえば藤本総合コーチになるのだが、彼にその役が務まるのだろうか。 球団は今回の組閣を30代から60代までバランスのとれた人材配分―と自負している。昭和60(1985)年、吉田監督の組閣は《一蓮托生内閣》といわれた。「監督が辞めるはコーチも辞める。一蓮托生、それだけ深い絆で結ばれたコーチ陣ということですわ」という吉田監督の言葉から付いた名前だ。 【ヘッド】土井淳【投手】米田哲也【打撃】並木輝男【守備走塁】一枝修平。どのコーチも直前までテレビやラジオの野球解説者を務めていたため、ペラペラとみなよくしゃべる。そこでついた裏のニックネームが《おしゃべり内閣》。それでもリーグ優勝を果たし、「日本一」にも輝いた。はたして《バランス内閣》の運命はいかに―。 ▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の68歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。
中日スポーツ