「杏さんなら深掘りしてくれる」直感信じて託した「かくしごと」 関根光才監督
とっぴな行動でも視点を変えれば理解できる
千紗子のとった行動はとっぴで、理解する人は少ないだろう。関根監督はこう解釈し、説明する。「彼女の視点を追いかけながら物語を見ると、普段なら理解できないことも理解できてしまう。彼女や周囲の人物に嫌悪感を持つ人もいると思うが、自分ではどこかで同調してしまうところがあった」。とはいえ物語の入り口で、自分が母親とうそをつき他人の子を育てる行為への違和感はぬぐい切れない。 「結果だけ見ると理解できないし、犯罪だと考えて反発し、嫌い、壁を作る人もいるだろう。ただ、千紗子の立場、事情を少しでも共有できれば理解できる。そう考え、観客を信頼して作った」。関根監督は俳優の演技のメソッドを例に続ける。「役者は、演じる人物に共通点を見つけ出すとよく言われる。役を生きるということにもつながる。それに近い」。この作品でいうと「千紗子のことはよくわからないが、千紗子が感じるファクターを少しでも感じることができれば、そこを入り口に気持ちも入っていける」 作品を具体的に見ていこう。記憶をなくしていく父と、取り戻すかもしれない子供を並べた。「記憶は原始的体験や家族にひもづいていて、それがトリガー(きっかけ)になって忘れていたことを思い出す場合もある。一方で、認知症は子供に戻っていく側面がある。〝記憶〟と〝子供〟がクロスオーバーする」。一方で、映画のラストは原作と大幅に異なる。衝撃的なクライマックスではあるが「映画の中で結論を出すのは良くない」と考えた。「解釈に余韻を残したいと思い、構成的にベストのショットが撮れた」と満足げに話した。中身は明かせないが「俳優はプレッシャーのかかる演技だったはず」と付け加えた。
「分からない」ほとんどなかった
作品の成否を分けたのは、千紗子を演じた杏である。これまで、こうしたテイストの作品は少なく、テレビドラマのイメージが強かった。「杏さんならやってくれる」。直感だったという。「自身の中の千紗子らしさを理解し、深掘りしてくれる」と思った。本人からは「この人のこと、結構わかる。今の自分ならやれるかもしれない」と伝えられたという。 役者にとって、優れた脚本や監督、共演者とタイミングよく出会うことは、そうそうない。それをつかみ取った時に「代表作」が生まれる。関根監督も「杏さんばかり見ていた」と、作品を託していた。「杏さんから『ここは分からない』という問いかけはほとんどなかった」という。