森山直太朗、ツアー〈素晴らしい世界〉完遂。新しい人生のスタートと家族への思いを語る
昨年6月から1年以上に渡って開催された森山直太朗のツアー〈素晴らしい世界〉は、10月22日にNHKホールにて計100本の千秋楽を迎えた。弾き語りを〈前篇〉、ブルーグラス編成を〈中篇〉、フルバンドを〈後篇〉と100本を3つのスタイルに分けて行ったツアーは、デビュー20周年を迎えた森山の人生をかけた大きな挑戦でもあった。
そして千秋楽の翌日、同会場にて開催された追加公演。3つの〈篇〉をまとめた全部盛りのステージは4時間近くにおよび、ツアーの打ち上げのごとく祝祭感あふれた集大成ライヴとなった(さらに来年3月両国国技館で〈番外篇〉の開催を発表)。彼が今回人生をかけたという表現は大げさでもなんでもなく、言葉どおりの重たい理由があった。明朗快活な人柄である一方で、人の顔色を窺ったり同調したりと自己抑制がデフォルトな性格でもある。しかしこのツアーを完遂させることでそれまでの自分を手放し、新しい人生をスタートさせたのだ。ステージで「papa」という遠くにあった父親との思い出の歌を唄う彼は、とても幸せそうだった。そんな公演の翌日、終わったばかりのツアーと自分を顧みる独占インタビューをここに。
このままだとたぶん自分のやりたいことができないと思った
「昨日はありがとうございました」 ーーこちらこそありがとうございました。ちなみに森山くんと話をするのは、1月のめぐろパーシモンホール以来で。 「開演前ですよね。あの時もありがとうございました」 ーーで、こうして取材するのは、映画『森山直太朗 人間の森をぬけて』の公開タイミング以来なんで、その頃から遡って話を聞きます。まず、御徒町(凧/共作者)との関係を解消したのがあの頃で、いわば独り立ちしたタイミングで。 「活動のすべてを土から掘り返すような作業の連続でした。御徒町との関係もそうだし、スタッフとの関係も全部、いったん整理することから始めて。御徒町との関係だけじゃなくて、セツナ(註:セツナインターナショナル/所属事務所)の体制も変えていく必要があると思ったんです。で、今までは絶対にやらなかった作業――自分がレーベルとか媒体の窓口になったり、ドラマの撮影現場にも1人で行ったりする時期があって」 ーーえ、そうだったの? 「もちろんスケールの大きな話は手伝ってもらったけど、しばらくは新人の頃みたいな動きを1人でしてて。そこから今の新しいチームでやるようになるまでは、事務所を辞めようと思ったんですよ」 ーーマジで!? 「このままだとたぶん自分のやりたいことができないと思って。古い体制とか考え方みたいなものに飲み込まれてしまうのもあったし、マネージメントってなんなんだろう?みたいな。一度は個人で僕がマネージャーを招聘したり、朝ドラの仕事も自分1人で現場に行っていたし。で、結果的に今の体制に落ち着いたんですね。あと、話が前後するけど、〈人間の森〉ツアーが終わったあと、2019年の12月にスペシャ(註:スペースシャワーTV)主催の〈Precious Live〉っていうライヴをやったんですよ」 ーー無料招待制のプレミアムライヴってやつですね。 「そのライヴが自分にとってセンセーショナルだったんです。今回のツアーで言うところの前篇と中篇みたいなライヴを初めてやって。それまでって僕のライヴって大きな額縁を作るような舞台だったじゃないですか。でもその時、舞台に楽器だけが並んでるようなライヴを初めてやって、〈なぜ僕は今までこれをやってこなかったんだろう?〉みたいな(笑)」 ーーいわゆる普通のライヴを。 「普通のライヴを(笑)。あの舞台のすべてが新鮮で。それを機に自分を掘り下げたらやりたいことがウワーっと出てきた感じですね」 ーーじゃあ100本ツアーという案も自分から? 「そうです。でも、10年ぐらい前からやりたいって言ってたんですよ。100本ぐらいはやらないとって」 ーーどうして? 「僕の中の原風景にあるんですよ。母親(森山良子)とか、いわゆる第一次フォーク世代の人たちって、みんなリサイタルと称して年間100~120本やるのが当たり前で。さっき額縁って言いましたけど、それまで僕の舞台って稽古を1ヵ月ぐらいしっかりやってから臨むようなライヴだったんで、やれても年間40本ぐらいで」 ーーそれだけでもかなりの本数だと思うけど。 「もちろん充実はあるけどピンとは来なくて。あと、さっき話した〈Precious Live〉で弾き語りとブルーグラスバンドをやれたことが大きくて。楽器だけあれば舞台が立ち上がることを確認できたからこそ、やっぱり100本やろうって」 ーーそうですか。今の話を聞いて思ったのは、それまで今まで御徒町とか奈歩さん(註:森山の異父兄弟。かつて森山のマネージャーを担当)みたいな人に寄り添い続けてきた自分を、一気に解放したってことで。 「そうです」 ーーちなみに……10年以上前、いつもインタビューの最後にしてた質問って覚えてます? 「なんだろう…………たぶん……『何がしたいの?』みたいなことをずっと聞かれてきたような気がする(笑)」 ーーそう。で、森山くんが「幸せになりたい」って(笑)。 「俺……可哀想(苦笑)」 ーー可哀想だったんですよ(笑)。自分で曲作って自分で唄ってるのに、何をやりたいのか、どうなりたいのかがわからないままでいて。でも、ついにちゃぶ台をひっくり返したと。 「それはもう大変な季節でした。しかも100本やるって決めたものの、準備期間が半年ぐらいしかなくて。でも幸運だったのは、弾き語りからツアーを始めることにしてたことで。物量も関わる人も最小限ですむじゃないですか、弾き語りって。それをやってる間に次の中篇とか後篇をどんどん決めていくっていう。それこそ前篇の会場も自分で選んでたんで、大変でした」 ーー会場選びも自分で? 「結局〈人間の森〉までの僕の舞台表現って、どこか他人事になりがちだったというか、自分から発信するもの以上に周りのスタッフの意図を汲んでやる感覚だったから、一向に自分ごとにならないんですよ。だから会場も行けるところは下見もしたし、自分で選びました。そういう行為を積み重ねてから舞台に立たないと、今までとまた同じことの繰り返しになるんで」 ーー徹底してますね。 「それぐらいやらないと、絶対何かあったら人のせいにしてしまう自分がいるのをわかってたんで。だから、どこまで自分ごとにできるかがすごく重要でした」 ーーその大きなモチベーションというか自分の支えみたいなものは、どこにあったと思います? 「まずコロナっていうのがひとつありますよね。怒りみたいな感情があるけどそれを向ける対象がないし、自分自身もコロナで大変な目に遭ったし」 ーー重症だったそうで。 「それも原動力のひとつではあって。あとはやっぱり過去の自分自身に対する怒りですね。もっと早く気づけるタイミングはあったはずなんですよ、もっと自分の足で立つべきだってことを。だから、とにかく失うものはないんだって自分に言い聞かせながらやるしかなくて。あと……コロナのせいなのかどうかわかんないけど、僕の知り合いが何人も亡くなって。鬱で亡くなった知人とか、癌で亡くなった友達がいて、その人が闘病しながら憔悴していくのを目の当たりにしたり。今でもあの時の感情に名前がつかないような驚きと恐怖があるんですよ。しかもそういう友達はみんな物を作りだす人たちだったんです。素晴らしいものを作ってて、僕自身何度もその作品に救われてきたのに、志半ばで亡くなって……。で、思ったんです。〈俺はもう絶対に手を抜かない〉って」