<開花の時・’24センバツ>チームの軌跡 別海/上 地域の支えがあったから 練習場や寄宿舎整備、次は僕らが /北海道
北海道東端部に位置する別海町は、日本一の生乳生産量を誇る「酪農の町」だ。乳牛の数が人口の8倍とはるかに多いことで知られている。春夏通じて初の甲子園出場を決めた別海は、勝てない時期も厳しい環境も、地域の支えで乗り越えてきた。 【写真で見る歓喜の瞬間】歴代のセンバツ覇者たち 「別海町をひっくり返そう」。島影隆啓監督(41)は、選手に入部を勧める際にこう口にしてきた。「誰も信じられないようなことを野球でやって、町の人をびっくりさせよう」との思いが込められている。 2016年、地域からの要請を受けて外部指導員として就任した当初、島影監督は目を疑った。「本当に練習していたのか」。室内練習場代わりの農業用ビニールハウスは穴が開いたり、雑草や物が散乱していたりとボロボロ。グラウンドも整備されておらずガタガタだった。 別海町出身の島影監督は母校の私立・武修館(釧路市)でコーチ、監督として約8年指導に当たった後、14年に故郷へ戻った。実家のコンビニエンスストアの副店長を務める傍ら、少年野球チームを指導していたところ、町の人から誘われる。「別海高で監督をやらないか」。再び甲子園を目指す決意をした。 当時の選手は2、3年生のわずか4人。監督就任と同時に入部した1年生6人と合わせて、選手10人でスタートを切った。「なんとかこの子たちを勝たせてあげたい」。掲げた目標が「3年で全道大会出場、5年で全道初勝利、10年以内に甲子園出場」だった。 父母会の協力を得てビニールハウスを整備し、グラウンドにも土を入れた。18年には男女19室の寄宿舎が誕生。町内で電気工事会社を営む橋本淳一さん(70)が地域の少子化対策としてホテルだった建物を買い取って改装した。町外の有望な選手も受け入れられるようになり、現在も選手6人が暮らしている。 札幌市出身の立蔵諄介(1年)は「1人部屋で自分の時間もあるし、充実している」。中標津町出身の影山航大(2年)も「寄宿舎が無かったら、別海に来ていなかったと思う」と話す。 島影監督は「弱かった時期からいろいろな人が支援して、声をかけてくれた」と感謝する。だからこそ、最も重視したのは「地域に愛され、応援されるチームになる」こと。スケートリンクのペンキ塗りや少年野球大会の手伝い、除雪作業など、歴代のチームはボランティア活動に積極的に取り組んできた。 昨秋、札幌ドームであった道大会には多くの町民が駆けつけた。別海は初戦、逆転サヨナラで大会初勝利を飾ると、準々決勝は延長タイブレークを制して4強入り。たくましい戦いぶりに、地元からライブ中継を見守った人々も歓喜した。漁師の阿部広幸さん(60)は「町のあちらこちらで、みんな騒いでた」と振り返る。 21世紀枠でのセンバツ出場が決まると、町は野球部の道外への遠征費用や、甲子園へ応援に行く生徒らの旅費など総額5000万円の補助を決めた。曽根興三町長は「酪農も漁業も厳しい状況で暗い話題が多かったが、野球部が町に活気を取り戻してくれた。できるだけのことはやってあげたい」と語る。 甲子園で力を発揮できるようにと、練習環境の改善も進む。冬場はビニールハウスが主な練習場だったが、町は牛の品評会や祭りに利用されるコミュニティーセンターを屋内練習場として提供。主将・中道航太郎(2年)の父・大輔さん(46)と阿部さんら漁師仲間が協力して防球ネットを張って、2カ所でフリー打撃ができる練習場が完成した。 「自分たちが甲子園に行けるのは町民の支えがあるから。町民を勇気づけられるようなプレーをしていきたい」と中道。町民と選手の思いが一つとなり、初の聖地へと臨む。【円谷美晶】