「お前は一人じゃない」震災で母親を失った中国人少年を支えた東北の職人たち #知り続ける
一通のメールが届いたものの
第二の故郷は、見るものすべてが泥まみれだった。到着後、いくら避難所を捜し回っても、母の姿は見つからない。海沿いの義父の自宅は壊滅し、母の友人である中国人の家を回っても、目撃情報は得られなかった。 もうダメなのか……。 そうあきらめかけた震災3日後、握りしめていた携帯電話の着信音が鳴った。 〈秀艶さんと一緒にいます〉 どうやら同じ事務所で働く母の同僚が、母に代わって郭にメールを送ってくれたようだった。 しかし、いくら返事を送っても返信が来ない。電話もまったくつながらない。 思案の結果、そのメールは津波が押し寄せる直前に送られたもので、電波の復旧によって3日後に郭の携帯に届いたらしいことがわかった。 でも、お母さんはきっとどこかで生き延びてくれている──。 郭はそう自分に言い聞かせるようにして、翌日も翌々日も避難所を回った。希望を捨てるなよ、と同僚の職人たちも手分けして、大槌町や山田町の避難所を探してくれた。
「お前は一人じゃないぞ!」という声が耳の奥に残る
3月末の東北にしてはあまりに暖かな春の日の朝、遺体安置所になった中学校の体育館の入り口の壁に母の顔写真が貼り出されているのを最初に見つけたのは、郭自身だった。 職場の上司に付き添われて遺体安置所の中に入ると、幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた母の体が木の箱に収められていた。 お母さん……。 彼はその場で崩れ落ち、そこから先の記憶は有していない。 付き添いの上司に抱きかかえられながら遺体安置所を出る瞬間、悲報を聞いて集まってきた職人たちの、なぜか怒っているような声だけが、耳の奥に残った。 「お前は一人じゃないぞ!」 「俺たちがそばにいるんだからな!」 いつもの怒鳴り声が、なぜかその日は涙声になって聞こえた。
滞在資格さえも失って
「でも、郭の身に起こった悲劇は、そこで終わりではありませんでした」 時折涙ぐみながら郭の話を通訳してくれていた彼の婚約者はそこで大きく息を吸い込むと、一度心の状態を落ち着けてから私に話の続きを聞かせてくれた。 実を言うと、私はその話の続きをかつて同僚記者が書いた新聞記事ですでに知っていた。それでも一生懸命事実を中国語で話そうとする郭と、それを必死に通訳しようとする婚約者の熱意に押されて、私は最後まで黙ってノートに証言を書き取ることにした。 同僚記者が書いた新聞記事やそのとき聞いた郭の証言によると、彼は驚くべきことに、東日本大震災に被災後、日本での滞在許可を取り消されてしまっていた。 郭は震災直前、来日2年になるのを前に、さらに1年間の滞在許可を日本政府に申請していた。震災後、その許可証を受け取りに仙台入国管理局に出向いたところ、担当官から「日本人の妻である中国人の母親が死去しているので、あなたはすでに日本の滞在資格を失っている」と告げられ、中国に帰国するよう求められたのである。付き添っていた職場の上司がどんなに説明しても、担当者の判断は覆らず、彼のパスポートには「出国準備」のスタンプが押されてしまった。