センバツ高校野球 中央大OBコンビ、関東一・米沢監督と臼井部長 「運命共同体」夏へ始動 /東京
◇仲間で友達、指導方針一致 第96回選抜高校野球大会(毎日新聞社、日本高校野球連盟主催、朝日新聞社後援、阪神甲子園球場特別協力)の開幕試合(18日)に、関東一が登場した。同校の最高成績の準優勝(1987年)を超える、悲願の全国制覇を目指したが、八戸学院光星(青森)に延長十一回で惜敗した。同校の米沢貴光監督(48)と臼井健太郎部長(48)は、同じ大学の野球部で汗を流した仲。悔しさをバネにコンビで次の夏へ始動する。【小林遥】 【写真で見る歓喜の瞬間】歴代のセンバツ覇者たち 2人はともに中央大(八王子市)OB。合宿所で同室になったこともあり「仲間であり友達」だ。卒業後、米沢さんは社会人野球のシダックス(都内・廃部)、臼井さんはワイテック(広島・廃部)でプレーした。離れていたが常に連絡を取り合っていた。2000年、米沢さんは母校の関東一の監督に就任。臼井さんはワイテックで選手で7年、監督として3年活動した。 2人が再び合流する転機は06年ごろ。臼井さんは長年の夢だった高校野球指導者の道に進みたいと考えていた。思いを知っていた米沢監督が「うちに来ないか」と誘った。当時、同校には米沢監督以外に野球を知る指導者は1人だけで、必要な人材だった。 臼井さんは二つ返事で引き受け、07年からコーチで加わった。当初、米沢監督が怒る姿は新鮮で「こんなに大きい声を出すんだ……」と驚いた。ただ、指導方針は最初から一致していた。ワイテック監督時代、短い練習時間を効率的に使うため、全体の実戦練習に重点を置き、打撃練習などは個人で取り組むよう指導していた。米沢監督も同様で、全体練習は夕方まで。それ以外の時間は自主練習とし、選手たちの自主性を重んじていた。 15年に部長に就任した臼井さんの自宅に、3個のウイニングボールが飾られている。15年夏の甲子園ベスト4、19年茨城国体での初優勝、そして昨秋の都大会で優勝した時のボールだ。部長の激務をこなす臼井さんに感謝とねぎらいを込めて米沢監督が渡した。「どちらかというと臼井さんは涙腺がゆるい」と笑う。国体の決勝で、九回の守備が始まって「ぱっと隣を見たら号泣していた」(米沢監督)。 米沢監督は「本来は監督の僕が責任を全部背負わないといけない」と前置きした上で「運命共同体」と表現する。臼井部長にとっても米沢監督は「パートナーのような相棒のような」存在。2人の深い絆がうかがわれる。 開幕試合後、米沢監督は「最後、勝ちきれる強さを考えて、また甲子園に戻ってきたい。臼井さんなどほかのスタッフ含めて、力を合わせてやっていく」。二人三脚で臨むのは、夏の舞台へ続く道だ。 〔多摩版〕