近鉄の絶対的エース・阿波野秀幸はなぜ勝てなくなってしまったのか 「登板過多」「左膝の骨折」「西武からのクレーム」...
阿波野秀幸インタビュー(後編) 前編:阿波野秀幸が語る『10・19』はこちら>> 中編:阿波野秀幸が振り返る感動のリーグ制覇からの悪夢の日本シリーズはこちら>> 横浜DeNA・パフォーマンスチーム「diana」厳選カット集(38枚) 入団1年目から3年連続200イニング以上を投げるなど、近鉄の絶対エースとして活躍していた阿波野秀幸だったが、90年の10勝を最後に成績は下降線をたどる。その後、95年から巨人で3年間プレーするも0勝。しかし、98年に移籍した横浜ではリリーフとして50試合に登板し、日本一に貢献。阿波野秀幸が激動の現役生活を語った。 【近鉄入団は想定外だった】 ── そもそも1986年のドラフトでは、近鉄のほかに大洋(現・DeNA)、巨人も1位で指名されました。 阿波野 地元の大洋や巨人は、亜細亜大の矢野祐弘総監督や僕に事前にあいさつしてくれていましたし、意中の球団でした。そんななか、スカウト同士の駆け引きもあったのか、当日、突然指名したのが近鉄だったんです。 ── 近鉄は想定外だったのですね。 阿波野 はい。ただ、近藤真一(享栄高)が5球団競合の末、地元・中日の星野仙一監督が引き当てました。「5分の1より、3分の2のほうが確率は高いな」という周囲のムードのなか、交渉権を獲得したのが近鉄だったわけです。 ── どういう心境でしたか。 阿波野 僕としては、近鉄に対しての感情というよりも「今後どうなるんだろう?」という思いのほうが強かったです。意思表示もなく参戦してきたことに矢野総監督は憤っている様子でしたから。だから、指名後に部員によるお決まりの胴上げや、交渉権を得た球団の帽子を被っての撮影などはいっさいありませんでした。 ── それでも近鉄入りを決断した理由は? 阿波野 結局、「最終的にプロに進むなら、社会人野球に進んで2年を費やすより、投手寿命を考えると旬のうちに勝負すべき」と。それに「近鉄は投手陣が少し弱いようだから、早いうちからチャンスがあるだろう」ということで、(近鉄入りへの)結論に至りました。行くからには、関東と生活環境の違う関西ですし、命をかけて1年目から結果を残す覚悟でした。 ── 当時、目標としていた投手は? 阿波野 子どもの頃は、オールスターで9連続三振を達成した江夏豊さん。その後は大野豊さんや川口和久さんという、自分に似た細身の左投手です。巨人に立ち向かう姿が印象深かったです。