《関係者が明かす「嵐」という社会現象》「オーラはあったが厳しい芸能界を生き抜くには“いい子”すぎる」華々しいデビューの後に待っていた低迷期
《嵐も期間限定のグループだと思ってたから、9月に結成してもワールドカップバレーボールが終わる頃には辞めようと思ってたの》 だがV6からワールドカップバレーのイメージキャラクターを引き継ぎ、1999年11月にリリースしたデビュー曲『A・RA・SHI』は96万枚を超える大ヒットとなりオリコンチャートで初登場1位を飾った。「スケスケ衣装」も話題を呼んだ、この曲を作詞したシンガーソングライターの菊池常利さんが語る。 「本人らのことは何も知らされず、“明るく元気で夢に向かって爆進するけど、斜に構えたやんちゃな少年たち”を勝手に想像してメロディーに詞をのせました。この曲を嵐が歌うのを初めて見たとき、想像と実物があまりに一致したのでうれしくて鳥肌が立ちました」 菊池さんの息子はアイドルグループtimeleszの菊池風磨(29才)。風磨がアイドルになったのは父が作詞した『A・RA・SHI』の影響だった。 「ぼくが作詞していたとき、幼稚園児だった風磨は嵐より先にこの曲を聴いていました(笑い)。その嵐のファンになり、憧れ、風磨は現在にいたります。“縁”とは不思議でおもしろく、ありがたいものです」(菊池さん) 華々しいデビューから一転、勢いは長く続かなかった。2002年にスタートした土曜昼の生放送『なまあらし LIVESTORM』(フジテレビ系)は視聴率1%台を記録したこともある。テレビ誌記者が語る。 「その頃の嵐はCDも売れずレコード会社を移籍した低迷期。音楽番組に出た際、5人は毎回番組終わりに出演シーンを振り返り、どうすればいいか真剣に話し合っていました」
2006年には事務所の後輩で、嵐の2年後に結成されたKAT-TUNが颯爽とデビューを飾り、社会現象ともいえる人気を博した。しかし、「すぐに辞めようと思っていた」はずの少年たちは決して腐らず、揺るがなかった。KAT-TUNのデビューが決まった頃、二宮、櫻井とテレビ局のスタジオで一緒になった駒井さんは2人の様子に驚いたと語る。 「ちょうどKAT-TUNの活躍を大々的に報じるスポーツ新聞があって、それを読んだニノが“すげえなあKAT-TUN、カッコいいよなぁ”と言ったんです。勢いのある後輩を見て素直にそう言えるなんて、嵐はすごいと思いました。彼らは売れない時期でも焦りはなく、自分たちのペースで歩いていて、地に足がついている感じがしました」(駒井さん) その言葉通り、やがて嵐の歩みに世の中が追いつくことになる。 (第2回へ続く) ※女性セブン2024年11月7日号
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