アリババ、テンセントに見る「南方」の処世術
長江下流域を中心とした経済のつながり
そんな本書の中でも、中心的な役割を果たしているのはやはり経済的な先進地域であった長江下流域、『東方見聞録』にいうところの「カタイ(中国北方を支配していたキタイ〔契丹〕民族にちなむ呼称)」に対する「マンジ」である。中国史に詳しくない人でも「蘇湖(蘇州ならびに湖州)熟せば天下足る」ということわざについて、社会の教科書などで一度は目にしたことがあるだろう。実はこの言葉に、著者が注目する、広域の「江南」における生態史観的なダイナミズムを理解するカギが隠されている。 蘇湖、すなわち長江下流域は早くから灌漑設備や平坦な土地の造成など、穀物生産のための土木技術が発達し、宋代には一大穀倉地帯となっていた。このため、江南デルタで収穫が豊かな場合、中国全土の穀物消費が満たされると言われたのが、上記のことわざの意味するところである。15世紀になると、そこに綿花栽培と養蚕が加わり、農業の副業として紡績、製糸、機織りが普及し、軽工業が大いに発展する。つまり、江南は中国で真っ先に工業化したのだ。 もともと人口の多かった江南デルタには、商工業の発展に伴って一層多くの人びとが流入したため、食料を自給することができなくなる。そこで前景に出てくるのが長江中流域の「湖広」と呼ばれる地域である。今は湖北と湖南と呼ばれる地域で、「湖」とは洞庭湖のことを指す。古代においては交通の要衝であり、明朝になるとこの地域は本格的な開発が進み、面目を一新した。江南が工業化したため、食料が不足し、未開発だった上流の地域に水田を作り、食料の供給地ならびに、江南の工業製品の消費地としての役割を担うようになる。そこに「蘇湖熟せば、天下足る」が「湖広熟せば、天下足る」と変化した背景がある。 一方、黄河流域の北京及びその周辺一帯は、多数の官僚・軍隊を抱える一方で、生産力が低く、物資は黄河と長江とを結ぶ「大運河」を通じて調達するシステムがすでに出来上がっていた。こうして、15世紀から16世紀の中国では政治・軍事を扱うのが北京、製品を作るのが江南、食料を生産するのが湖広というように地域がそれぞれの機能に特化し、お互いに補完し合う分業システムが成立した。つまり、中国の発展を考える上で「北方」と「南方(江南)」との関係を考えるのはもとより重要だが、「江南」のコアたる長江下流域の発展も、より内陸の「江南」との関係の中で新たにとらえ直す必要がある。これが、著者がより広域の「江南」に着目し、中国史を語り直そうとする最大の理由であろう。 いっぽう、長江下流域が上記のような中華世界の「内側のつながり」の中心にあるとしたら、「外側とのつながり」の中心的な役割を果たしたのが「瘴癘(しょうれい=感染症)」 の地とされながら、海外貿易のフロンティアとしての役割を果たし、それゆえに近代における「革命」の原動力ともなった福建および広東という華南地域であった。本書ではそれに加え、「離れの奥座敷」としてチベットなど西方の地への漢民族の移住・入植のゲートウェイとしての役割を果たしてきた四川までもが「北方」に対置される「南方」の多様性を象徴する存在として登場する。