北の鉄路を考える④ ら~めん共和国が消えたの巻 帰ってきた令和阿房列車で行こう 第三列車
岩内は、北海道が蝦夷(えぞ)地と呼ばれていた江戸時代の宝暦元(1751)年に和人(日本人)が定住した記録があり、札幌や函館より街の歴史は古い。鉄道が岩内まで開通したのも大正元年と結構、古い。 駅からは近場にあった茅沼炭鉱の石炭だけでなく、豊漁が続いたニシンを全国に運んだ。 だが、炭鉱が閉山となり、ニシンが取れなくなると急速に寂れ、昭和60年に岩内線は廃止された。 「戦後しばらくまで駅は大変な賑(にぎ)わいだったそうです。今では想像もつかないでしょう?」と鉄道乗蔵(のるぞう)さんが、かつて岩内駅があった跡地にあるバスターミナル前のK寿司(すし)でしみじみと語る。日曜の午後6時過ぎだが、人通りはほとんどない。道の駅も閉まっていた。 それにしてもK寿司の特上ちらし(2750円)は実にうまい。いくらや北寄貝、カニなど北海の幸をふんだんに使ってこの値段は有難(ありがた)い。ご当地の地酒「二世古」との相性も抜群だ。互いの健闘を誓って別れると、あっという間に眠りについた。 ◇ 翌朝、岩内バスターミナル午前9時15分発の俱知安行きバスに乗り込んだ。乗客は私1人。途中のバス停からポツポツと計4人乗り込んできたが、乗換駅である小沢で降りたのも私だけ。 9時46分発小樽行き各駅停車は、H100形2両編成でやってきた。座席はほぼ埋まっており、オフシーズンなのに外国人観光客も結構いる。 予想通り余市では、結構立ち客も出た。百歩譲って利用客の少ない長万部―蘭越間はともかく、蘭越―小樽間は鉄路を廃止する理由が見当たらない。特に余市―小樽間の利用者は、1日2千人もいるというのに。 しかも外国人観光客が激増する中、札幌―ニセコ間に直通観光列車が一本も走っていないとは、どういうことか。かつては蒸気機関車C62が引っ張る「ニセコ」号が人気を呼び、JR北海道も頑張っていたのだが…。 前日、乗蔵さんの愛車で俱知安町のスキー場周辺を見て回ったが、あまりの変わりぶりに愕然(がくぜん)とした。外国人向けのコンドミニアムが立ち並び、まるで租界のようだった。新千歳空港からニセコまでの旅客需要が十分にあるのは小学生でもわかる。 「主張」のように怒っているのは、小樽から乗り継いだ札幌方面行き電車が、早朝に起きた事故の影響で、前後の電車が運休になったため山手線より酷(ひど)い混み具合だったせいもある。