松崎しげるが明かした西田敏行さんとの六本木青春物語
<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム> 24年10月17日に俳優の西田敏行さんが亡くなった。76歳。その9日前には出演映画の舞台あいさつに立っていたから、文字通り突然の死だった。1年を振り返る特集記事で西田さんと半世紀にわたって交流があった盟友、歌手の松崎しげる(75)に話を聞く機会があった。ともに売れない時代を過ごし、ともに芽が出た70年代のエピソードは、どれも興味深かった。 2人をつないだのは、同年代で先に売れた柴俊夫(77)だった。 「NHKの『新・坊ちゃん』(75年)というドラマに柴さんが主演していて、西やんは山嵐役だった。僕は柴さんの家に居候していて、当時は留守録機能がないから、家に残って番組を録画する役だった。で、番組が終わる(午後9時)とそのまま六本木に繰り出すというのが日常だった。西田の演技が印象的で、すごくいいねと柴さんに言っていたから、なら今度連れて行くよ、と。それが始まりでした」 松崎が歌っていた六本木のクラブに柴が西田さんを連れてくる。 「西田は『おれ六本木初めてなんだ~』と福島弁丸出しで完全にお上りさん。人懐っこいんだよね。酒をがんがん飲んで、ステージに上がってきて意気投合した。それから毎晩。正月も一緒に過ごしたなあ。2人とも売れないうっぷんがたまっていたから、その頃売れていた役者や歌手をさかなにひどいことも言っていた。西田は1曲として最後まで歌える歌がないから、そんなことや放送禁止用語連発のアドリブ。これがお客さんに受けた」 2人のステージに目を付けた業界人がいた。 「面白いヤツがいるとTBSのプロデューサーがやってきた。深夜ラジオの話かと思ったら、テレビの生放送で、土曜昼の番組(西やん松ちゃんのハッスル銀座)だった。ゲストを題材にした替え歌のコーナーがメインなんだけど、六本木のクラブではあれだけ下ネタを連発していた西田が、そこでは昼のテレビに合わせたバージョンでちゃんと受けている。順応性がすごいんだね。ゲストの人選も僕らの希望を聞いてくれた。僕は憧れだった十朱幸代さん、西田は突拍子ないから、なんと『アラン・ドロンの奥さんがいい』と。で、1週目のゲストが十朱さん、3週目にはナタリー・ドロンがきたんですよ。天にも昇るような。何という時代だったんだろうね」 そんなさなかの77年に2人に転機が訪れる。 「僕には『愛のメモリー』との出会いがあり、西田は『三男三女婿一匹』で注目された。主演の森繁久弥さんはご存じのようにセリフの半分以上がアドリブなんだけど、西田はそれを平然とアドリブで返したんだよね。2人ともうなぎ上りに売れてく実感があった。僕はその年の『レコ大』と『紅白』に出ることになった。当時は両方とも大みそかの放送で、それをハシゴするのが歌手の夢だったんだね。西田はまるで自分のことのように喜んで、その日は朝から晩までついてきた。客席で大騒ぎして、紅白はステージにまで上がったからね。周囲の幸せを自分のことのように喜べる人だった」 西田さんが亡くなる10日前にも酒席をともにした。だから、突然の訃報には実感がわかなかったという。 「自宅の西田はまるで生きているようで、演技しているのかと思った。寿子さん(夫人)の許可をもらって顔を触ったら、とたんに涙が止まらなくなった。自分の体の一部を剥ぎ取られたような気がした。棺が窯に入った時、もう肉体が無くなると思ったら『西田! 日本一!』って思わず声が出た。骨になった西田を見て気丈にこらえていた寿子さんと2人のお嬢さんが声を上げて泣きだした。骨に混じって何本もボルトが見えた。こんな体で頑張っていたんだと思ったら、また涙が止まらなくなった」 西田さんの葬儀の2日後、松崎はステージに立った。リハーサルではどの曲にも必ず感想を言った西田さんの姿を思い出し、まったく歌えなかったという。だが、本番では信じられないくらい声が出た。 「西田に歌わされている気がした」 自分の中では「今でも西田が生きている」実感があるという。【相原斎】