突然の訃報から2年――志村けんさんが日本のお笑い界に残したもの
言葉が通じなくても浸透した笑い 台湾では「喜劇王」と称された
――そうして作り上げられたコントやギャグは大ヒットし、志村さんは幅広い世代から人気を博すようになりました。 多くのコメディアンが喋りを中心に笑わせるなかで、志村さんは動きと見た目の面白さが7割。それでいて喋りも面白いという、日本では珍しいタイプのコメディアンでした。動きが面白いと、それだけで小さい子どもも理解できますよね。志村さんの笑いは、物心がついた子どもからお年寄りまで、楽しめる幅が広い。そんな笑いを46年にわたって第一線で届けていたわけですから、他に例がない存在だと思います。 ――海外からの人気も高かったそうですね。 いまでも世界各国の人々の、ドリフや志村さんのコント映像を見たリアクション動画が、YouTubeなどの動画サイトにたくさん投稿されています。その動画では、日本語が分からないはずの海外の方が、涙を流しながら笑っています。 とりわけ台湾では、日本以上といわれるほどの人気ぶりでした。「バカ殿様」や「だいじょうぶだぁ」が始まってからは、志村さんのモノマネ芸人が何人も登場し、志村さんが台湾に行った際には街中がパニックのようになったこともあったそうです。
志村流の笑いは日本人の笑いの教科書
――西条さんから見た志村さんは、どのような人だったのでしょうか。 世間の方にとっては、いつもニコニコしたひょうきんなおじさんのイメージがあると思いますが、コントやギャグを考えているときの志村さんには話しかけづらい雰囲気が漂っていて、迫力がありました。小道具一つとっても決して妥協することがなく、例えば、東村山音頭の白鳥のコスプレや、うんこのぬいぐるみは、志村さんが美術の方と何度も練って作ったそうです。 おならの効果音を探していた際には、志村さんがわざわざ海外からおならの音ばかりが収録されたレコードを取り寄せ、どのおならの音を使ったらいいだろうかと真剣に選ぶという、徹底したこだわりぶりだったといいます。 ――志村さんがこの世を去って2年。いま改めてどんなことを思いますか。 いまでも、子どもたちが初めて志村さんの笑いを見れば、理屈抜きにすぐに笑えます。そんなコメディアンは他にいないでしょう。志村さんは、世界中のあらゆる笑いを突き詰めて研究し、自分流に消化して、世代も国籍も超える“日本人の笑いの教科書”を作り上げたと思います。 志村さんはギャグ一つ考え出すにも、稽古をするにも、何日も何時間もかけ、一つの番組を作っていました。そんな志村さんの遺志を受け継いだ若いコメディアンが、今後どんどん出てきてほしいと思います。志村さんの遺志を継ぐ形によって、志村流の笑いがいつまでも多くの人に親しまれる時代がずっと続けばいいなと、心から思っています。 ----- 西条昇 江戸川大学教授。高校1年で中退後、ジャニーズのオーディションに合格するもダンスについていけず断念。落語家修業、出川哲朗と共に山田洋次監督作品三本出演、コミックバンドを経て「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」で放送作家に。お笑い、アイドル、ストリップ、浅草芸能に関する新聞雑誌・ネット記事への執筆・コメント、TVラジオ出演、講演、レジェンド芸人・喜劇人や昭和アイドルへのインタビュー取材も多数。