「月光仮面」が始まると銭湯に閑古鳥が鳴く 社会現象の仕掛人は素人集団
昭和30年代に全盛を極めた映画業界からはそっぽを向かれ、機材も人材もノウハウもなにもない状態で見切り発車的にスタートを切ったテレビ映画「月光仮面」でしたが、映画界の冷ややかな視線をよそに視聴者をひきつけていきました。企画が決まり、プロデューサーも決まりました。あとは映像化を実現するためには、監督を探す必要がありました。 「【連載】「月光仮面」誕生60年 ベンチャーが生んだヒーロー」の第4回では、映画評論家で映画監督の樋口尚文さんが、映画最盛期の昭和30年代の映画監督に求められていた素養と初のテレビ映画の監督に大抜擢された船床定男さんとはどのような経歴を持つ人物だったのか、を解説します。
監督経験のない情熱監督が撮った『月光仮面』
このように『月光仮面』という大ヒット番組の成立過程は、ひじょうにベンチャー的なものであった。全くドラマ制作のプロダクション機能をもたない一広告代理店の社長が、ほとんど勢いで番組制作をぶちあげて、なんの人材も機材もないところから、映画界の下積みだった青年をプロデューサーとしてスカウトして、見る前に跳ぶ感じでおっぱじめたものだった。ここまでは、そんなどさくさのなかからあの月光仮面のビジュアルや設定がひねり出された過程についてふれてきた。 さて、これが初プロデュース作と29歳の西村俊一青年は、作家の川内康範と『月光仮面』の企画の概要をこしらえたが、次のかんじんな目標は、この番組を実際に演出する監督を見つけてくることだった。そしてかねて西村の仲間であった当時26歳の船床定男が監督に起用されたのだが、実は船床もそれまで撮影所の映画で演出助手などの下働きをしていたものの、全く監督経験のない若者だった。 京都生まれの船床は高校を出ると演劇少年となり、やがて加藤泰監督が結成していた劇団に入る。後に名匠と目される加藤泰も、大映京都で黒澤明監督『羅生門』のチーフ助監督をつとめた後、レッド・パージで大映退社を余儀なくされ、演劇活動を行っていた。やがて加藤は新東宝傘下の下請けプロダクションで監督デビューするが、船床も加藤の縁で同プロの助監督となった。ここで船床は時代劇の名匠・伊藤大輔監督の作品について経験を積んだが、映画業界で浮草のように暮らす船床は実家から勘当されていた。 やがて船床は、西村俊一の属する東宝傘下のプロダクションに移り、そこで二人は運命的な出会いをすることになるのだが、西村は以前から京都で時代劇を撮影するたびに、ほとんどセットの中で寝泊まりしているような映画の虫の船床のことが気になっていたという。だが、当時の華やかなりし大手の映画会社で監督になれるのは有名大学出身のエリートだけであって、船床のように下働きで現場にもぐりこんでいたスタッフは到底邦画五社の監督になることはできなかった。したがって、そのまま船床が映画業界にいたら、彼は一生監督デビューする機会にもありつけなかったことだろう。それは西村俊一にしても同じことだったかもしれない。