プレーボーイ横綱と呼ばれ、師匠になって門限破りは自らが一番多かった/北の富士さんアラカルト
角界のご意見番だった元横綱北の富士氏が逝った。NHK相撲解説者の竹沢勝昭氏が亡くなっていたことが20日、分かった。82歳だった。関係者によると秋場所後に体調を崩して、入院していた。12月に都内の八角部屋でお別れ会が開かれる予定。名門出羽ノ海一門を破門されたが、70年初場所後に52代横綱に昇進して通算10度優勝。引退後は千代の富士、北勝海(現八角理事長)の両横綱らを育てた。協会幹部として期待されたが早期退職で解説者に転身し、歯に衣(きぬ)着せぬ論評で人気があった。現役時代も派手な行動で再三話題となり、逸話に事欠かない存在がまた一人幕を下ろした。 【写真】70年、大鵬の自宅で玉乃島とポーズをとる北の富士さん ◇ ◇ ◇ 北の富士勝昭(きたのふじ・かつあき) ◆道産子 1942年(昭17)3月28日、北海道美幌生まれ。父竹沢正信さん、母ミヨシさんの7人きょうだいの次男。父は祖父の料理店を継ぐも、小2で留萌、中3で旭川に移る。小学校から速球投手もノーコンでエースにはなれず。水泳は得意で、地区相撲で優勝したこともあった。 ◆同郷横綱 留萌巡業で栃錦のサインをねだるも、付け人に追い払われた。仕方なく同郷横綱千代の山にサインをもらうと「あんちゃん大きいな」と頭をなでられた。野球で北海高などに誘われたが肩を痛め、中3で将来の夢は「相撲取り」と書いた。 ◆不合格 先生が千代の山後援会世話人に紹介も、千代の山は「規定の71キロになったら」。世話人宅に下宿し、毎日どんぶり8杯で約10キロ増。57年正月に上京も青函連絡船など長旅で約8キロ減。土産の小豆3袋も上野駅で転んでばらまく。出羽海部屋入門も57年初場所新弟子検査は7キロ足りず。50人中1人不合格も当時の自費養成制度で初土俵を踏む。翌場所は合格した。 ◆奮起 59年夏に本名竹沢と出身地美幌から竹美山に改名も、見込みないと行司の付け人に。細身で前に出る相撲から香車と呼ばれる。60年夏の釧路巡業で親戚のごちそうに飲みすぎて朝帰り。兄弟子にかわいがりを受け、翌日に母と対面も急性虫垂炎と腹膜炎併発で50日間入院。見返そうと傷口をガーゼで押さえながら再上京。勧誘の世話人の勧めで60年秋に北の冨士へ改名した。 ◆転機 九州後に出羽海親方(元横綱常ノ花)が死去し、武蔵川親方(元前頭出羽ノ花)が継承した。牛乳飲み放題、ちゃんこも牛肉1人1キロ、フルーツも並ぶなど方針が変わる。「太れば強くなる」と声も掛けられて夕方も稽古。初土俵から30場所で幕下昇進できなければ解雇規定があったが26場所目で昇進した。 ◆予想外 63年春には新十両に昇進し、九州では十両で当時史上3人目の15戦全勝優勝を飾る。64年初場所は13勝の新入幕最多勝で敢闘賞、春は最短幕内2場所目で小結昇進。66年名古屋は10勝で5場所連続関脇を維持も直前3場所は28勝。予想外の大関昇進となり、付け人にたたき起こされ、佐田の山から紋付き袴(はかま)を借りて伝達の使者を迎えた。 ◆破門 63年に横綱佐田の山が師匠の婿養子となり、元千代の山の九重親方は後継の目が消える。67年1月には北の富士を部屋頭に10力士を連れて独立も、出羽海一門からは破門となる。高砂一門となった春は佐田の山に取り直しで勝ち、千秋楽に柏戸も破って14勝で初優勝。ともに移籍した松前山が十両も制した。 ◆改名 有頂天で銀座通いし、夏、名古屋と連続負け越しも、秋に北の富士と改名してかど番を脱出した。68年春に「せめて外国に行きたい」と名前を勝明から洋行に改名も、夏には本名勝昭に改名した。 ◆見送り 69年九州で2度目の優勝を飾り、協会は横綱審議委員会に横綱昇進を諮問も却下される。翌70年初は千秋楽に玉の海に負けたが、優勝決定戦で雪辱して連覇果たす。品行に異議も玉の海と同時で52代横綱昇進となる。大関所要21場所は当時最長。横綱2場所目の70年夏、名古屋と連覇も、4場所連続11勝にイレブン横綱と言われた。大鵬引退も刺激に71年夏に全勝優勝した。 ◆短命北玉 71年に2班制の夏巡業を北海道岩見沢で打ち上げも玉の海が虫垂炎で休場に。秋田・八郎潟巡業は代役となり、自らは雲竜型も玉乃島の不知火型で横綱土俵入りした。秋は2度目の全勝優勝。10月に岐阜・羽島の巡業先で玉の海急死の報に涙止まらず。九州で連覇もパレード後回しで四十九日の法要に参列した。横綱昇進前は玉の海17勝16敗、昇進後は北の富士6勝4敗だった。 ◆因縁貴ノ花 72年初の関脇貴ノ花戦は外掛けも上手投げを返されて右手が先につく。軍配は貴ノ花も物言いでかばい手となり、行司差し違えで浴びせ倒しの勝ち。帰りは車を蹴られてボコボコにされる。春は外掛けもうっちゃられ、軍配は北の富士も勇み足で貴ノ花の勝ちに。後年「顔をかばった。擦りむくと銀座に行けない」「2度目はかばい足にしてほしかった」などの名言? を残した。 ◆サーフィン 1人横綱を8場所務めるがライバル急死も引きずって休場が増える。73年夏は不眠症で途中休場。場所後にハワイで気分転換もサーフィン写真が新聞に載り、即刻帰国指令で厳重注意処分。73年春に全勝で10度目が最後の優勝。74年名古屋で初日から連敗すると師匠に相談もせず引退表明。師匠が「もう一番とってから」と慰留も気持ちは変わらなかった。 ◆歌手 初の横綱会では玉の海のギターに合わせて歌って先輩を驚かせた。67年にはテイチクから「ネオン無情」をリリースして50万枚を売り上げ。4曲リリースし、69年には歌番組「夜のヒットスタジオ」にも出演した。 ◆遊び好き 夜の帝王、プレーボーイ横綱などと呼ばれ、ちゃんこ店やキャバレーも経営。75年の引退相撲では断髪後に白のタキシード姿で登場し、ネオン無情を歌って喝采を浴びた。師匠になって午後11時門限で罰金5000円としたが、自らが一番多かった。 ◆不祥事 65年夏場所前に大鵬、柏戸らと拳銃不法所持で書類送検されて、けん責処分となる。71年九州では力士会会長として宿舎の多い福岡県西署にあいさつも、同行後援者が右翼的政治団体所属で戒告処分となる。82年の千代の富士の結婚式に反社会的団体関係者が出席していたため、師匠として九州場所謹慎と審判副部長から審判委員に降格処分を受けた。 ◆2横綱 74年9月に井筒部屋として独立し、77年11月に九重親方が死去し、合併の形で部屋を継いだ。弟弟子の千代の富士を投げから左前みつの速攻に変身させて横綱まで育てた。新弟子時代に「オオカミに似ている」とウルフの名付け親。北勝海と2横綱で39度と弟子の当時最多、10連覇も出羽海部屋と当時最多タイ。関取は9人育てた。短期間で約40キロ減量のスリムな容姿でも驚かせた。 ◆区切り 師匠は50歳までを有言実行し、92年に引退していた千代の富士に部屋を譲る。部屋付きの陣幕親方となるが、93年に北勝海が八角部屋で独立すると移籍。86年から理事に就任して審判部長、94年は新設広報部長など6期12年務める。 ◆転身 理事長候補とも言われたが、98年に高砂一門の理事候補から外れるとあっさりと協会を退職した。春場所から大関以上では初のNHK解説者となる。02年には都内のホテルで、露払い北勝海、太刀持ち千代の富士を従えて、還暦横綱土俵入りを披露した。 ◆稀勢の里応援団長 元小結龍虎は同期生で、飲み歩くなど一番仲が良かった。引退後タレントになった龍虎が14年に急死。葬儀で「おれにはやり残した夢がある。日本人横綱を見届けてからそちらに行く」とあいさつ。自称「稀勢の里関を横綱にする会」をつくり、食事をしたり、直筆の手紙を送って後押しした。