阪神の若手が躍動する秋季キャンプに平田2軍監督がいない…チームを支えてきた功労者は今季で終わり!?何だか違和感だらけ…
◇コラム「田所龍一の『虎カルテ』」 高知・安芸で行われていた阪神タイガースの秋季キャンプが11月17日、終了した。連日、スタンドは満員。グラウンドでは若虎たちが懸命に打ち、守り、走った。藤川球児新監督は選手一人一人と語り、時には外野の芝生に車座になって話していた。聞く選手たちの目はキラキラと輝いていた。 「甘い」「緩い」「岡田監督時代にはもっとピーンと張りつめた緊張感があった」という声も聞かれたが、そこは70歳が近い監督とまだ40歳代前半の若い監督の《選手との距離》の違いだろう。それよりも気になったことがある。それはこの秋季キャンプに平田勝男2軍監督が参加していないということだ。 甲子園球場での秋季練習には顔を見せていた。そのあと宮崎での秋季教育リーグ「みやざきフェニックス・リーグ」では10月28日まで指揮を執り、11月1日からの秋季キャンプ期間は「鳴尾浜残留組を見る」ということで居残ったのだ。65歳という平田2軍監督の年齢やヘッドコーチとして岡田監督を支えた、シーズンの疲れを取ってもらおう―という球団の配慮も含まれた「居残り」なのだろう。だが、若い2軍選手が中心の秋季キャンプに2軍監督の不在はやはり違和感がある。そんなとき妙な噂を耳にした。 「平田さんは3年契約の2年目が終わったところ。まだ1年契約が残っている。だから4度目の2軍監督に就任したんですよ」 なんだか1年だけの2軍監督。契約が切れたら終わり―のように聞こえるではないか。だから秋季キャンプからも外れた? そんなバカな! 2022年オフ、矢野耀大監督に代わる次期監督候補として球団が阪急阪神HDの角和夫会長に提案したのが「平田監督」。藤川氏を入閣させて将来の監督として育てる―という案だった。それから2年の歳月が流れ、一足飛びに藤川監督誕生となったものの、球団の平田氏への評価は高いはず。いや、今の阪神に平田2軍監督は欠かせない存在である。 平田勝男氏、1959年(昭和35年)7月31日生まれ、長崎県出身。81年のドラフトで明大から2位で阪神入団。当時の阪神の遊撃手は真弓明信氏。その真弓が故障した83年5月に「遊撃手」として定着。84年から87年まで4年連続でゴールデングラブ賞に輝く。初の「日本一」に輝いた85年シーズンには二塁手・岡田と鉄壁の二遊間を誇った。 94年のシーズンを最後に現役を引退。13年間の現役生活の中で「忘れられない一打」は85年10月10日、甲子園球場でのヤクルト戦で放った野球人生で初の満塁ホームランだ。 「そんじょそこらの満塁ホームランと違うよ。三塁走者がバース、二塁走者が掛布さん、そんで一塁走者が岡田さん。こんなシチュエーションでのホームラン、奇跡でしょ。大歓声の中、ベースを回ってホームに帰ってきたら、この3人が出迎えてくれるんですよ」 平田氏の指導者としての始まりは97年、吉田監督(3度目)の下で務めた1軍の内野守備走塁コーチ。以後、野村克也(99年~2001年)、星野仙一(02~03)、岡田彰布(04~08)、真弓明信(09~11)、和田豊(12~15)、金本知憲(16~18)、矢野耀大(19~22)、そして岡田監督(2度目)まで、のべ9人の監督の下でコーチもしくは2軍監督を務めてきた。星野監督時代は明大の後輩ということでユニホームを脱ぎ「監督専属広報」となって仙さんを支えた。こんな逸話が残っている。 03年、星野監督はリーグ優勝を果たしたもののシーズン中から体調不良を訴え、遠征先の宿舎で何度もエレベーターの中で苦しくなってうずくまっているのを目撃されている。そして試合中も何度も意識を失いかけたという。「敵に弱みは見せられん」とベンチで立つ星野監督。そして「平田、オレを持っとけ!」と叫んだ。 「オレはベンチでひざまずいて、監督が倒れないように後ろからベルトを持って必死に支えた。顔を見たら本当に意識を失くしてるときもあったよ」という。 今年の岡田監督の場合も監督室で酸素吸入器の管を鼻から入れて、苦しそうに息をしている姿を何度も見てきたという。 「新聞に監督の今季限りの退任が報じられてから症状がひどくなったと思う。あれで緊張の糸が切れてたんじゃないかな。最後の試合(DeNAとのCS戦)にはもう気力が…」 平田2軍監督はタイガースの歴史を語れる指導者である。若い選手たちに野球の技術を教えるのも大事な仕事だろう。だが、タイガースの輝けるスターたちの素顔や歴代監督の話など《タイガース魂》を話して聞かせられる人物は、いまの阪神の中で平田2軍監督しかいない。来シーズンどころか、まだまだ平田監督に「お疲れナマです」というのは早い。 ▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の68歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。
中日スポーツ